ばくみちひと習作NOTE2011

寒中お見舞い申し上げます。新しい年が始まりました。今年は心機一転を図って、老廃物のように生きるのを止め、生きることの意義を探してみたいと思います。『南飛騨からのたより』の更新にも努めます・・・時々で結構ですので、この場末の劇場型の『南飛騨からのたより』にご来場ください。

胃腸風邪?寝込んで1月が終わる (2012.01.31)

 それまで悪寒を感じることは有ったし、体の節々が若干痛んだが、悪寒はこのところの厳しい寒波の襲来によるものだと思ったし、節々の痛みは前日に行われたボーリング大会に参加して久しぶりに運動をしたせいだと思って、それほど気に留めることはなかった。
 1月30日(月)の午後2時45分頃になってからのことである。急に気分が悪くなってトイレに駆け込んで嘔吐した。「何だこれは」と少し落ち着いてから検温をしてみると38度3分有った。最初に思ったのは、「インフルエンザだったらどうしよう?」ということである。東海地方でも1月下旬からA香港型のインフルエンザが猛威をふるい始めていると新聞やTVで報道されていた。インフルエンザの症状とは違っているようなのでインフルエンザでは無いだろう、胃腸風邪だろうとは思いつつ、腹痛は無く下痢症状も無いので典型的な胃腸風邪でもないようなのである。素人判断ではではなく、医療機関で検査をしてもらって、インフルエンザかそうでないのかを知りたいと思った。小坂診療所は午後も3時から診察が行われている。すぐに妻に診察券を受付へ出しに行ってもらった。
 インフルエンザかどうかに強くこだわるのは、今、2歳半になる孫が我が家に遊びに来ているからである。「じいじ」「じいじ」と私に懐いてくれている。可愛い孫にインフルエンザを移すわけにはいかない。
 「前に10人ほどが受付を済ませていたので、診てもらえるのは午後4時を過ぎてからではないか」と妻が言う。5回の嘔吐、下がらない熱・・・私の体はフラフラしていた。横たわっていても苦しい、起き上がっていても苦しい、急激にそんな状態になったのだ。「何なんだこれは」・・・午後3時45分頃から小坂診療所に向かった。その車の中でもう1度吐いた。「胃の周りにはまだ何か残っているのか」と憤然とした。
 救急患者などの割り込みもあって、受診できたのは午後5時近くになってからであった。鼻孔の奥の粘膜を採ってインフルエンザであるのかどうかを検査してもらった。激しい嘔吐であった。脱水症状を防止するためにと生理食塩水の点滴を受けた。その間にインフルエンザ検査の結果が出た。「インフルエンザである反応は有りませんが、熱の出始めの頃は80%程度の確立です。明日以降も熱が続くようであれば、もう1度検査をすればもう少し確度の高い結果がえられるだろうと思います。希望があれば再検査をしてください」。点滴を受けながら、もし明日以降も熱が続くようであれば、絶対に再検査をしてもらおうと思った。インフルエンザではないと判るまでは、孫とはマスクをして対応しなければならないし、手や足に触れることもできないのである。
 点滴をしてもらって、一旦熱は下がったのだが、夜半にまた上がり始め、31日午前2時に嘔吐した。お茶と水しか飲んでいなかったが、それを2回に分けて嘔吐したのである。体温は38度を超えていた。今回のこの症状、38度5分くらいまでは上がるのだが、39度までは決して近づかない。変な症状である。小坂診療所で処方してもらった解熱剤を飲む。いろいろな変な(何を見たかの記憶は無いのだが)夢を見ながらうつらうつらとして、それでも幾ばくかは眠って朝を迎えた。熱は平熱に下がっていた。
 が、起きてから熱は少しずつ上がり始め、午後にはまた38度以上になってしまった。小坂診療所へ行き、再びインフルエンザの検査をしてもらう。今回もインフルエンザではないようだった。本当に「ほっ」とした。
 胃腸の薬ももらったので、何とか嘔吐することは無くなっている。が、熱の波動のような昇降は続いている。今のところ家族には同じ症状が出ていないので、感染性は無いのかもしれない。そうで有ってくれれば有り難いのだが・・・

風邪で伏し節分祭のビラを見る
風邪引いて「大丈夫か?」と問われても解りはしない躯がぶれる




飛騨高山の二十四日市 (2012.01.24)

 インターネットで「飛騨高山;二十四日市」で検索をした。「飛騨経済新聞Web」に二十四日市のことが載っていた。
《高山の(本町)商店街通りで1月24日、毎年恒例の「二十四日市(にじゅうよっかいち)」が行われた。二十四日市は旧暦の年末に行われていた「年の市」を原型とし、現在では毎年1月24日に地元商店街が中心となって開いている冬の恒例イベント。農家の冬仕事で作った生活用具や日用品を売る「市」として栄え、かつての名残として現在でも、地元保存会が作る「宮笠(薄板の編みがさ)」や「小屋名しょうけ(竹編みのざる)」、「有道しゃくし(一木削りだしの木じゃくし)」「江名子ばんどり(稲わら編みの雨具)」など、本物の飛騨の伝統工芸品を販売する店も並ぶ。歩行者天国となった本町通り商店街には、飛騨内外から集まった飲食店・特産品店164店が軒を連ねにぎわった。高山市観光課の発表によると、この日は同イベントに約4万6000人が訪れた》。
 今年は小坂町や飛騨の年中行事、季節を感じさせてくれる行事・催しに出来れば出掛けて行きたいと思う。飛騨高山で1月24日に開かれる二十四日市・・・本町通りを中心に開かれる二十四日市に出掛けた。
 午後から出掛けたので、午前中がどうであったかは判らない。午後は鍛冶橋から上(かみ)、本町1丁目〜3丁目が混雑していた。今日では完全に観光イベントと化しているが、無くなるよりは生き延びている 二十四日市 ほうが良いと思う。中国本土からなのか台湾や香港からなのか、中国からの旅行客がかなりいたように思う。すれ違う人々が会話する言葉、あれは韓国語ではなく中国語だった。二十四日市で、私は豚汁(300円)とコロッケ(200円)を買って食べた。
 二十四日市で「蒸し寿司」が売られていた。「すし兆」という店の持ち帰り「蒸し寿司」である。値段を見ると1,500円であった。若き日には「蒸し寿司」を求めて京都などに出掛けた私は、「すし兆」の「蒸し寿司」を買おうかどうしようかと迷ったが、結果的には買わなかった。本陣平野屋(高山市本町1丁目)花兆庵の「すし兆」では蒸籠で蒸したむし寿司(蒸し寿司)を出しているそうである。テレビの旅番組ではみちや寿司沖村家(高山市相生町25)が紹介されることが多いが、飛騨で「蒸し寿司」を出しているところはまだまだ多く有るに違いない。
 中途、急に寒くなって雪が舞い始めた。けっして若くはない夫婦らしき男女が、温かい食べ物を買い求めてお互いに労りの思いをぎこちなく表しながら食べている光景を眺めながら、高山近郊の人々にとって以前から二十四日市は売るほうも買うほうも「ハレ」の楽しい日だったのだろうと思われてならなかった。




島国の未来 (2012.01.19)

 仙台市の国分町はおおよそ3000軒の飲食店が集まる東北地方を代表する繁華街だそうだ。その国分町の夜が羽振りの良い客で活況を呈しているそうである。報道はされないが、他にも東北東海岸で賑わっている繁華街・飲食店があるかもしれない。一方、夜の東京・銀座は客足が減っているそうだ。いずれも東日本大震災の影響があるという。国分町も銀座も私には縁の無い所であるが、諸行無常ということか・・・一寸先の成り行きがどうなるのかは私等ぼんくらには判らない。
 何が起きるのかは判らない・・・東北の東海岸に(あるいは日本列島沿岸に)10mを超える津波が襲ってくることがあるなんて、そんなことを東日本大震災前に警告していた人はいたのだろうか。いたとしたら、東北の東海岸で津波で亡くなる人はもう少し少なくなっていたかもしれない。「後出しジャンケン」で「したり顔」をする権威的学者を、私は3番目に嫌いである。
 「狛犬の目が赤くなったら大津波が来るからすぐに高台に逃げよ」・・・そんな話、私は小川未明の童話だと思いこんでいた。でも、違うみたいだ。
 福島沿岸を死の街にしたが、「原子力発電は必要だ」・・・ほとぼりを冷ましてから、日本では原子力発電が再開されるのだろう。日本という島国の住民は毒を喰らってでもこれまで享受してきた栄誉栄華を捨てることはできない。欲望、酒池肉林・・・仙台市国分町で震災から1年も経たない今日に何万円もする酒を呷る男たちのように、政治家とその支援者、電力会社、経済界、資本家、投資家等々・・・私利私欲のためにこれからも「原子力発電は必要だ」と唱える輩がぞろぞろぞろぞろ出てくるだろう。
 私は今さら福島の原発が垂れ流す放射能に晒されてもそれほど自らの死には影響しない輩である。そんな私ではあるが、原発事故後、アメリカ軍が避難命令を出したことも中国・香港など外国が住民の福島渡航を禁じたことは正しい措置だったと思っている。福島原発周辺は今なお放射能汚染で旧住民が戻って住むことができない状況らしい。そんな状況を生じた原発を「国家や企業のエネルギー確保のために早期に再稼働するべきだ」と唱える人たちの意見に拍手を送ることはできない。
 「けれど、私たちは原発の無い時代の生活に戻ることができるのだろうか」と思うことがある。近日中に昭和30年代を舞台にした映画の第3作が封切られるそうである。日本はドイツとは違う。原発が無ければ、私たち日本の住民はどの時代までもどった生活をしなければならないのだろう。
 システムバスやウォシュレットや電子レンジや車や機能便利な各種家電製品に馴らされてきた私たちに不便な日常生活は可能なのだろうか・・・無秩序に加熱し膨張して線香花火の火の玉が呆気なく失せる地球と同じように失せるだろうが、日本列島はそれ以前にどうなるのか判らない。それまで私は生きていられるのだろうか。
 加齢臭放つ老醜の老衆が語る未来は如何なる未来。




小正月の日のどんど焼きと寒粥まつり (2012.01.15)

 1月15日、小正月である。私が若い頃には1月15日は祝日であった。「成人の日」である。ハッピーマンデー制度が導入された2000年(平成12年)から1月第2月曜日が「成人の日」となって、1月15日は祝日ではなくなった。
大島諏訪神社どんどの火 大島諏訪神社の焼き餅振舞い 湯屋冨士神社寒粥振舞い
 「1月15日を、元日からの大正月にたいして小正月と読んでいます。また旧正月とも呼び、これは、昔の暦が、満月から満月(月の半ばから半ば)までを1カ月と定めていたためで、農村にこの数え方が残っています。小正月の行事には、まゆ玉(もち花飾り)を作って神棚に供えたり、お正月飾りを集めて焼く、どんどや左義長の行事があります。まゆ玉のもちやだんごをこの火で焼いて食べるとかぜをひかないとか、書初めの灰が高く舞い上がると、字がうまくなるという言い伝えもあります。この日には、昔の中国では、小豆がゆを炊いて一家の健康を祈る風習があり、日本にも伝わりました。いまでもその名残りをとどめている地方もあります」(主婦の友社・『冠婚葬祭百科』)。
 日曜日となった今年の1月15日には、大島諏訪神社で「家内安全祈願祭」と「どんど焼き」が行われたので、注連縄や古い大麻や御札、御守などを持って出かけた。小坂地域の神社で「どんど焼き」が行われるようになったのは、家庭から竈(かまど)が無くなっていく時代からであっただろう。「昔は注連飾や御札は各家庭で竈で焼いた」と何かで読んだ気はするが、何に書かれていたのかはわからない。小坂町誌(昭和40年発刊)の年中行事には、「十五日正月 15日は一般に仕事を休む。今は成人式を行い若人の前途を祝福する」とそっけなく書いてあるだけで、「どんど焼き」「左義長」という風習に関しては何も書かれていない。しかし、家庭から竈が消えていくにしたがって、神社での「どんど焼き」が求められるようになっていったのだろう。正月飾り、大麻、御札、御守などを可燃ごみとして出すのには少し抵抗が有る。参拝をしてから、諏訪神社境内で振舞われていた焼き餅と甘酒(粕酒)を戴いた。
 その後、湯屋温泉にある冨士神社へ向かった。湯屋地区には「寒中に鉱泉で炊いたお粥を食べると一年中病気にならない」という伝承があり、正月の「安全祈願祭」時に参拝者に鉱泉粥(寒粥)を振舞う「寒粥まつり」が行われるのである。湯屋冨士神社に出掛け、一年間の健康を祈念するとともに、寒粥を戴いてきた。




猟奇事件・心の深い闇 (2012.01.12)

 □下呂女性遺体、高山の男再逮捕へ 遺棄容疑で週内にも
 岐阜新聞Webである。
 「下呂市で昨年4月、高山市西之一色町のアルバイト店員Nさん(当時44)が白骨化した遺体で見つかった事件で、県警は11日、愛知県豊川市のベトナム人女性殺人事件で殺人罪などで起訴された、Nさんの元同僚の G被告(47)が事件に関わっている可能性が強まったとして、今週中にも死体遺棄容疑で再逮捕する方針を固めた。Nさんの遺体は昨年4月9日、下呂市の県道脇で見つかった。死後約1カ月とみられ、県道には「白骨死体がこの下にあり」などと遺体の場所を示すメモが貼られた三角表示板が置かれていた。Nさんは3月8日夜から行方が分からなくなっており、自宅から約2q離れた場所で車が見つかっていた。G被告は、県警の6月の任意聴取に対しメモを残したことや、遺体が発見される1週間前、下呂署に「遺体がある」と通報していたことを認めていたが、遺体の遺棄については関与は否定していた。県警は、G被告が、Nさんが死亡した経緯も知っている可能性もあるとみて、慎重に事情を聴く方針」。

 私の住む下呂市で起こった事件であり、〈県道には「白骨死体がこの下にあり」などと遺体の場所を示すメモが貼られた三角表示板が置かれていた〉という異様な殺人・遺体遺棄事件である。3月〜4月に下呂市の山中で遺体が腐敗で白骨化することなど有り得ない。白骨化していたとすれば野獣の餌食とされたに違いない。〈白骨死体がこの下にあり〉などというメモを県道に置いた事情心理は何だったのか・・・私は異常心理ということには関心を持ってきたが、人間という生物は同じ人間には理解できないことを引き起こすことが多々有る。この事件、なぜこのようなことが起きたのか、注意深く報道に関心を持っていたい。
 昨年「東電OL殺人事件」の再検証が始まったが、関心を持たざるを得ない事件(下世話な興味でもそれはそれで良いことだと思うのだが)というものは、人それぞれに多々あると思う。かつて恵那郡(現中津川市)のS病院や老健の事務局長であった人が家族や愛犬を殺害したという事件が有った。定かでは無いが、時期的にその加害者と会ったことがあるのではないかという思いがある。「すべてが嫌になってしまった」・・・加害の動機について加害者はそう〈供述〉したと、記憶している。
 人は誰もが〈私〉に纏わり付いて底無し泥沼に引き込もうとする心の闇を持っているのかもしれない。そして多くの人々はそれに煩わされることなく、そこそこ生き亡くなるのだろう。私もそう在れればいいのだが。
 けれど、各種の異様あるいは猟奇事件に興味を持ってしまう私がいる。




8針の縫い傷で2012年が始まった (2012.01.10)

 □新年は愛犬に噛まれて幕を開け
 3連休が終わった1月10日、県立下呂温泉病院外科の受診に出かけた。右手甲の縫い傷の抜糸をしてもらうためである。
 元旦の午前9時過ぎ、私は、診てもらえるかどうかを電話で確認して出かけた下呂温泉病院の救急外来の待合室に座っていた。私の右手甲の傷を診てくれた当直当番医師は、偶然善きことに外科医師で、「縫ったほうが良いと思います。そして、破傷風予防注射を打っておいたほうが無難です」と言った。右手甲の傷を8針縫って綴じてもらった。そして左肩に破傷風予防注射を打ってもらった。
 私の手に噛み傷を創ったのは愛犬の柴犬「もも」である。しかし「もも」が悪かったわけではない。元旦の午前8時過ぎ、私は「もも」との朝の散歩に出かけようと玄関戸を開けた。「えっ!」・・・「もも」が家の外を走っている。手綱は私の手元には無い。玄関を出るとき手綱が私の手から離れたことはこれまで7年間1度も無かったことだ。慌てて外に出てみると、そこには滅多にいることのない散歩中の犬がいた。「もも」はその犬に向かって行った。「もも、止めよ!」と、私は「もも」に飛び付いた。興奮した「もも」は辺り構わず噛み付いた。かくして、「もも」を組み伏せた私の右手甲は「もも」に噛み付かれたのであった。左手の手首も噛まれたが傷は浅かった。
 「一部はまだ腫れています。もう少し抜糸するのを見合わせましょう」・・・1月10日は5糸を抜いて、3糸は(状態が良ければ)13日の金曜日に抜くこととなった。
 「まっ、こんな歳始めもあるだろう」・・・「もも」はどう見ても、自分の仕業に何の責任も感じているふうでは無い。



飛騨小坂&下呂―勝手にリンク集●リンクする許可を得ないで作成しています
「NPO法人飛騨小坂200滝」「御嶽山五の池小屋」「南インド料理店チットラ」・・・その中のブログがお奨めです。

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巌立峡(がんだてきょう)ひめしゃがの湯




2011年大晦日 (2011.12.31)

  □屠蘇散
 しばらく飲むことは無かったが、『サライ』2006年1月5日号「正月 新年の伝来作法」を読んでいて、来年の元日には屠蘇を飲んでみようかと思ったのだ。「年始には、各種の薬草を浸した特別な酒、屠蘇(とそ)を飲む習慣がある。屠蘇とは蘇(鬼)を屠(ほふ)の意。一年の邪気を払う飲み物である」(『サライ』)」。かかりつけ薬局へ屠蘇散を買いに行った。「どうぞ使ってください」と無料で屠蘇散をくれると言う。有り難くもらってきた。桂皮、山椒、陳皮、桔梗、大●香、丁字、浜防風が原材料名である。
 




玄関飾りをする (2011.12.28)

  損なうも憚(はばか)るもそれ歳の暮

 今日は午後から棚(仏壇)と神棚を拭き掃除し、神棚の大麻(御神札)と注連縄を新しいものにした。玄関の注連飾りをいつ飾るか、私の住んでいる地域では30日に飾ることが多いようであるが、ウィキペディアフリー百科事典には注連縄を飾る時期として「クリスマス後から28日までに飾る事が一般的である」と書いてあった。「東日本大震災」「原発メルトダウン」「中国官民覇権(寇)」「円高不況倒産」「タイ大洪水」・・・天災・人災が起きた2011年だった。「アラブの春」や「金正日死亡」が吉凶いかなるものかは分からないが、相対的に2011年はそれほど良い年ではなかったように思う。私個人も不本意だった。体調が良く無く、思うように活動できなかった。こんな2011年は早く終わってもらい、一陽来復・・・新しい年が早く来てくれるようにと、例年より早く玄関注連縄を飾ったのだ。
 飼い犬の「もも」との夕方の散歩は妻の役割である。が今日は、妻から「今夕は都合があって行けないので「もも」との散歩をして欲しい」と頼まれていた。
 クリスマス寒波は一段落したらしい。今日は晴れた。午後4時45分頃から「もも」と夕方の散歩に出かけた。雪の日などには暗くなるのが早いが、今日はまだ明るさが残っている。広重ブルーのような夕暮れの西空に月零4日の細い月が浮かんでいた。カラスの群が騒がしく鳴いている。カラスとトンビは仲が悪い。どうやらカラスの群がトンビを威嚇しているようだ。空を見上げると百羽以上のカラスが群をなして丸山と水槽山との間を右往左往していた。カラスの塒(ねぐら)が丸山に有るのか水槽山に有るのか確かなことは分からない。「もも」はそんな空中の気配に興味は無いらしい。小坂ダムの水面に国道41号の街灯や通る車両のヘッドライトの灯り、ガソリンスタンドの灯り、県道の街灯が映っている。細い月の下方には明るい星が見える。金星だろうか。




(仮題)断捨離 (2011.12.27)

 朝日新聞朝刊の生活面に「ひととき」という読者の投稿記事欄がある。平成23年12月27日の「ひととき」は「書きためた日記捨てた」と題された東京の小西雄子さん(無職・70歳)の原稿であった。非常に気になり考えさせられた記事だったので、無断転載させて頂く。

 最近、50冊ほど書きためた日記帳を、最初と最後の2冊を残し、思い切って捨てた。日記を書き始めたのは小学5年生の時、父からのプレゼントだった。それから60年近く、日記を書き続けてきた。「いつか自分史でも書くときのために」と思っていた。しかし、結婚も子育てもなく、棒のように生きてきた身としては、書くようなこともなく、パワーもなくなってしまった。人に話すと「もったいない」と誰もが言う。だが、読み返すこともなく、ただ置いているだけでは、私の死後、残された者も困るだろう。流行の断捨離ではないが、身辺をきれいにしておきたいと思った。日記は日々の私の思いを吸い込んでくれる。捨てるにあたり、ぱらぱらとめくってみると、幼い自分、何かに夢中になっている自分、誰にも言えない思い。悲しい! バカヤロウ! とだけ書いてある日もあった。「捨てるのをやめよう」とは思わなかった。忘れられない思い、出来事はずっと心に残るはずだし、自分の胸にしまっておけば良い。これからも日記は書き続ける。さて、買うのを3年日記にするか、5年日記にするか、迷っている。

 (作成中)




2011年歳末 (2011.12.26)

 □愛犬との朝の散歩
 今朝は10pほど積雪があった。今日の私の〈仕事〉と呼べるものは、飼い犬の「もも」との朝の散歩である。「もも」は神戸産まれのメスの柴でもうじき7歳になる。概ね午前7時30分から8時までの間に自宅を出て、約1時間散歩をする。散歩コースは決まっていない。今朝は自宅近くにある小坂ダム(中電東上田ダム)の縁を歩いてきた。雪に被われた周囲の山々は水墨画のような景色を見せていた。小坂の人たちは凍える寒さを「凍(し)みる」という。今朝は水道管が凍るほど凍みはしなかったが、まあまあ寒かった。凍みる季節は川の水が透きとおる。水の中の混濁物質が沈殿してしまうのだろう。清流小坂川の透明度がどの程度かは知らないが、10m以上は容易にあるに違いない。凍みるとき、匂い・臭いも鮮烈化するのではないか。雪が積もった散歩道、「もも」が行きたがる道をたどっていくと、鳥の足跡やすでに歩いたらしい別の犬の足跡が有ることが多い。突然雪の中に顔を潜らせることがあるが、冬眠中の蛇やミミズや蛙やモグラの臭いがするのかもしれない。「もも」との散歩を終えて帰宅するのは8時30分から9時までの間になることが多い。それから朝食を食べたり新聞を読んだりTVを見たりする。そうこうするうちに午前10時が過ぎる。以後はだらだらと所在ない時間が過ぎていく。

 □ホットワインとザワークラウト
 耶蘇生誕前夜祭の日、私はスーパーマーケットへ妻が注文していたクリスマスケーキを取りにいった。そしていつも飲んでいる焼酎の1升パック詰めの他に安価な赤ワインを1本買った。720ml 580円、長野県塩尻市の潟Aルプス製「あずさワイン 酸化防止剤無添加 コンコード」という赤ワインである。「コンコード」とは葡萄の種類らしい。ボージョレヌーボーなるものでも千円以上するが、そんなワインを飲みたいとは思わない。580円というのは私の要望に叶っている。私が飲みたいのはホットワイン、寒い夜に体を温めてくれる燗葡萄酒である。「あずさワイン」をレンジで燗して飲んだ。美味かった。
 ザワークラウトはキャベツの漬物(or 発酵食品)、私は熟鮨(なれずし)は好きでは無いが、キャベツの酢漬け風味ザワークラウトを食べたいと思ったし自分でも作ってみたいと思っていた。以前私の義弟が経営する会社で自家製ソーセージを作っていた。区長など地域への役目を果たした後は、自家製ソーセージ生産工場の下働きをさせてもらえたら・・・と思っていた。が、私がフリーとなった今年、義弟の自家製ソーセージ生産工場は休業状態になってしまっていた。ザワークラウトはソーセージの付け合わせ、ソーセージとの煮込みに使われるドイツや北欧諸国の食べ物らしい。ザワークラウトを作ってみようかと、インターネットでその作り方を調べてみる。材料に「キャラウェイシード」「ローリエ」「お好みによりディルシード」と書かれている。「ローリエ」は聞いたことも使ったこともあるが、「キャラウェイシード」「ディルシード」とは何なんだろう。スーパーマーケットのスパイス売場に行ってみたが、「キャラウェイシード」「ディルシード」などというものは無い。ローリエの葉さえない。
 いつかザワークラウトを作りたいなと思いながら、ホットワインを飲んでいる。




荻町の駐車場 (2011.12.19)

 世界文化遺産・白川郷の合掌造り集落(荻町地区)に車の乗り入れを禁止しようという動きがある。荻町地区には白川村営駐車場(約30台収容)が有り、その他にも民間の有料・無料の駐車スペースがある。荻町地区は、地区内に車を入れないようにすることを考えているらしい。もちろん反対はある。民宿や土産物店、農協や地区内のガソリンスタンドなどの利用者も車では来られなくなる。「不便になる」・・・生活に支障をきたす住民の思いも良く分かる。
 今回の車の乗り入れ禁止をはかっているのは荻町地区であるという。白川村ではない。
 もう20年以上昔になる。私は現・白川村長と一緒に南ドイツの「健康保養地」の観光の在り方について観てきたことがある。日本もドイツも車生産国であるが、バーデンバーデンもパッサウも、パッサウ近郊の温泉保養地も、車の入れる場所と入れ無い場所(人々が車の往来に脅かされずにのんびりと散歩できる場所)を厳密に分けていた。  確かに、行きたい場所に車を横付けに出来ないことは、田舎に暮らす者にとって不便なことに違いない。村営駐車場の取扱いについて白川村長がどのような決断をするのか分からないが、車の姿が消えた荻町もなかなか良いのではないかと思う。今は、荻町に入らず福光に向かうことが多い私であるが、車の姿の無い荻町なら、一度歩いてみたいなと思う。




ボウリング (2011.11.05)

 私の住む町には齢100歳を越えてなおボウリングを楽しむ吉野さんという男性がいる。この世にはたくさんの「日本一」「最高齢」が存在する。驚愕すべき「日本一」「最高齢」のなかで齢100歳を越えてなおボウリングを楽しむことはそれほど注目されることでは無いのかも知れないけれど、齢100歳を越えてなおボウリングを楽しむ吉野さんの存在は驚嘆すべきことなのでは無いかという気はしている。
 ボウリングという球技も面白いが、個人で(あるいは家族で)「ボウリングをしに出かけようか」ということにはなかなかならない。今のところ年1回、大島区体育部が運営する「大島区民親睦ボウリング大会」に参加するのが唯一の機会となっている。
 12月4日に下呂ボウリングセンターで「大島区民親睦ボウリング大会」が開かれた。私も参加申し込みをして出場した。今年は出場に若干の不安を抱いていた。ボウリングのボールを投げるとき、右利きの私は左足を踏み込んで(左足に加重して)ボールを投げなければならない。1月に骨折した左足の足首付近の骨に異常は起こらないのか・・・少し不安はあったものの、「大丈夫だ!」と参加を申し込んでおいたのだ。大会が始まって、レーンにボールを投げたとき、まだ自分が左足首への加重を充分にできないことを感じながら、何とか投げられることができることを感じた。
 大島区には11の組がある。私の暮らしている地区は大島7組である。組対抗成績で7組が優勝した。男女個人成績でも7組住民が優勝した。大会終了後、7組の参加者が食堂で会食をした。結果論ながら総合・男女個人の優勝を総なめにして、7組の人たちは機嫌が良かった。




2011年11月3日 伝統的工芸品展を観に行く (2011.11.03)

 飛騨高山まちの博物館で《第31回飛騨の伝統的工芸品展/過去・現在・未来 受け継がれる「こころと技」》が催されているというので、観に行った。飛騨高山まちの博物館近くの遊朴館2階で開かれている織物と和風万華鏡の展示会も観てみたかった。金森長近公が馬にまたがっている銅像が設置されている城山公園は子供連れの親子や高齢者仲間の利用が多い。その駐車場は無料なので、城山の駐車場に車を停めて高山の町散策することがある。上一之町にある飛騨高山まちの博物館に海老坂を通って行く。
 第31回飛騨の伝統的工芸品展、飛騨春慶、一位一刀彫り、焼き物(渋草焼、小糸焼、山田焼)が展示されていた。受付でアンケート用紙を渡された。「優れた作品を選んで欲しい」という。作品の善し悪しなど分かるはずも無い私である。が、職人世界の重鎮の作品がもてはやされるのか、長年切磋琢磨して伝統を守り継続しようとしている職人の作品が評価される(購買者に愛されるのか)・・・そんなことに関わりなく、私が気に入った作品を「優れた作品」としてアンケートに答えた。
 第31回飛騨の伝統的工芸品展を観た後、飛騨高山まちの博物館の常設展示を観て回った。飛騨金山出身の加藤素毛の俳句集、小坂の門坂村の道づくり地図、そして一位一刀彫の祖といわれる松田亮長作とその弟子たちによる根付けや置物を観る。確かにすごいなと思う。その展示物の中には桃介さんが亡くなったとき小坂の京丸屋から持ち去れた作品があるのかもしれない。
 京や江戸の夏の風物詩として庶民に親しまれたものに、暑気払いの「枇杷葉湯売り」がある。飛騨高山まちの博物館に「びわようとう」を売るのに使った用具が展示されていた。かつて、詩人の西村宏一さんが飛騨春秋で紹介した田中冬二の作品に「真夏の日中は 紫外線が強く テニスも出来ない程あかるい町/そして夜は 冷え冷えして 暗い辻に/枇杷葉湯売の赤い行灯の出てゐるような古いしづかな町」・・・枇杷葉湯売の担いで担う用具が展示されていた。名称は分からない。
 遊朴館2階で開かれている織物と和風万華鏡の展示会も見てみたかったので、そちらに出かけた。織物も和風万華鏡も素晴らしいものだろうが、直感的に「私には合わない」と思い、早々に退散してきた。




2011年11月2日 朝日ヒスイ海岸へ
(2011.11.02)
ヒスイ海岸 田中冬二石碑
 今年も何度か日本海へ独り日帰りドライブをしたが、飛騨小坂→高山→飛騨白川郷→福光→金沢森本→千里浜→羽咋(滝港、柴垣)→氷見→新湊→八尾→高山→飛騨小坂というルートがほとんどであった。今回は富山の東側の海岸に行ってみようと思った。午前9時に家を出て、滑川のほたるいかミュージアム(道の駅ウェーブパークなめりかわ)に着いたのは午後零時30分、車の走行距離メーターは131qとなっていた。越中宮崎の「朝日ヒスイ海岸」まで行って帰途は海岸線を走ろうと思った。が、黒部辺りで越中宮崎まで行くのが面倒に感じられて何度か引き返そうと思ったが、「せっかくここまで来たんだから」と我慢して越中宮崎まで行くこととした。午後2時に朝日ヒスイ海岸着、走行距離メーターは175q。20分ほどヒスイ海岸の砂利浜でぼんやりと時を過ごす。カリカリカリという波が引いて行くときの砂利が立てる音が、若い日に海水浴を楽しんだ越後市振の海水浴場での時を思い起こさせて懐かしかった。帰途、黒部市の生地に寄った。生地台場近くの観光案内看板図を見ていたら「田中冬二の石碑」という文字が目に入った。近くの旅館に田中冬二の詩碑があるらしかった。「何で?」と思いながらその石碑をたずねてみる。生地温泉「たなかや」という旅館があって、「田中冬二資料館 ぽえむ ふるさと」があるとの看板があったが、「たなかや」は休みで、資料館に入ることはできなかった。玄関横に詩碑があった。「ほしがれひをやくにほひがする ふるさとのさびしいひるめし時だ」という「ふるさとにて」という作品を書いた詩碑があった。田中冬二の父は富山出身である。冬二は12歳のときに母を亡くしているが、そのとき弟・正健は富山の祖母むめに引き取られている。「たなかや」という旅館の名称を考えれば、冬二の父の故郷は生地だったのであろう。11月ともなれば日暮れは早い。午後5時を過ぎれば途端に暗くなる。緑内障が静かに進行している私には知らない暗い夜道を車を走らせるのは避けたい。とにかく高山までもどろうと帰途を急ぐ。高山の「ちとせ」で大盛焼きそば(490円)を食べ、午後7時30分頃帰宅。本日の走行距離、359q。


 

愛犬「もも」の寝姿 (2011.10.31)
ももの寝姿




2011年11月1日 (2011.11.01)
 旧暦10月6日の月が雲の無い青い南の空に浮かんでいた。その下を白い線を残して飛行機が日本海の方へ飛んで行った。夕方の4時20分を過ぎてから愛犬「もも」と夕方の散歩に出かけた。湖畔橋、市道大島11号線を通って大島ふれあい公園に行き、岐阜森林管理署敷地内を通らせて頂いてきこり公園を通って湖畔橋にもどる。
 失業して3年6カ月が過ぎた。内臓や血管の疾患、怪我などもあって、稼業をすることなく3年6カ月をやり過ごしてきた。


 

台風15号 (2011.09.21)
 2011年9月11日午後2時頃静岡県浜松市付近に上陸した台風15号は、夕方から夜にかけて関東・東北を進むようである。朝、私が畑の暴風対策措置に出かけている間に、仙台市にある南インド料理店主のI氏から電話があった、と妻が言う。岐阜県では台風15号接近に伴う秋雨前線の活発化で雨量が増加し、河川の洪水・氾濫や土砂崩れなどが危惧されたため、飛騨南部の下呂市のさらに南部(旧下呂町中原・上原、旧金山町)や東濃地方の土岐や多治見で避難指示・勧告、道路の通行止めや公共交通機関の運休されることとなった。そのことが東北・仙台でもTVニュースなどで報道されたのだろう。飛騨小坂は被害を受けていないのか・・・それを心配してI氏は電話をかけてきてくれたらしい。我が家では、台風15号が秋雨前線を刺激しての大雨による被害は無かった。
 午後3時頃しばし強い風が吹いて、少し強い雨が降った。夕方、行政(防災)無線で、「飛騨小坂の湯屋小井戸で県道が崩れて通行止めとなった」と放送があった。湯屋小井戸で県道が崩れて通行止めとなる・・・正直どのような状況なのか想像がつかなかった。湯屋校下の人々の日常生活に支障がでるだろう。
 飛騨小坂には絶対安全な場所など無い。何時でも何処でも土砂崩れ災害や谷川の水の氾濫による水害は起こり得る。取り敢えず我が身に被害が及んでいないことを幸いとしなければならない。


 

地蜂 (2011.08.31)
 妻の実家の裏で、今日の午前中の作業はここまでにしようと畑で使っているホースを片付けていたとき、左手の親指の付け根近くの掌で激しい痛みを感じた。何が起こったのか瞬間分からなかった。つかんでいたホースをかなぐり捨てて、周囲を伺ってみた。足元に蜂が落ちてもがいていた。「蜂に刺された!」・・・私にも蜂に刺された体験が有ったような気もするが有ったとしても遠い昔のことである。私はすぐに小坂診療所に向かった。蜂刺されによるどのような反応があるのか、自分には分からないのである。「息苦しくありませんか?」「体に湿疹は出ていませんか?」・・・特別な変化は無い。「しばらく様子を見てみます。体調がおかしくなったらすぐに言ってください」。
 知人が「どんな蜂に刺されたんやな?」と聞くけれども、私は蜂の名前を知らないし、種類を見分ける知識も無い。1時間経っても窒息感やアレルギー症状が出なかったので、アレルギー抑止、痛み止め、抗炎症軟膏をもらってきた。
 翌日、妻の実家の裏へ出かけた。昨日蜂に刺された付近に蜂はいないかと辺りを伺って見て、私は息を飲んだ。私が農作業用具を置いている場所のすぐ側の軒下の壁に20〜30pほどのお好み焼き状の蜂の巣が作られていて、周囲に蜂が群がっているのである。外周を警戒するように蜂が飛んでいる。近くにおられた燐家のKさんに「あの蜂は何という蜂なんでしょうか?」と尋ねる。「地蜂(ジバチ)やな。普通は地面の中などに巣を作るんやけど、近頃は家の壁などにもかけるようになっとる」、とのこと。いずれ私にはどうすることもできない。
 有料で駆除してくれる人に駆除をお願いする。地蜂は壁の中まで巣を作ることが多く、場合によっては壁などを壊さなければ巣は駆除できないという。下見で、「たぶんかなり壁の中まで入り込んでいる。たぶん壁の一部をチェーンソーで切り取る必要が出てくると思う。除去の準備もしなければならないので、明日午前9時頃から作業をする」という。
 本朝、何とか地蜂の巣が除去された。「2〜3日は兵隊の蜂が周囲を飛び交うので気を付けてください」と駆除してくれた人は言う。
 ウェブで「地蜂」について調べてみる。地蜂はクロスズメバチで、その子は長野県伊那地方や岐阜県東濃地方では「ヘボ」と呼ばれ食用にされているらしい。蜂の毒素は強いらしい。左手はまだ腫れている。


 

夏の終わり@ (2011.08.19)
 8月15日の「怪我無地藏尊供養祭・子ども御輿巡行」「大島区納涼夏まつり」が終わると、南飛騨小坂はしだいに秋めき始める。昭和30年代までは9月1日〜3日に行われた「盆(盆踊り)」が夏の終わりを告げたが、南飛騨小坂が衰退し始めた昭和30年代後期からは、そうした伝統・季節行事は衰退していき、今ではほとんど残っていない。結果的に、「怪我無地藏尊供養祭・子ども御輿巡行」「大島区納涼夏まつり」が南飛騨小坂の最後のイベントになっている。そのイベント、夕方に雨は降ったが何とか盛況で終えることができたようだ。「怪我無地藏尊供養祭」「大島区納涼夏まつり」開催を指導・牽引してきた大島区長さんは、もう「総合防災訓練」や「大島区敬老会」の実施・開催に向けた準備活動に携わっておられる。ご苦労様と申し上げたい。
 朝、雨が降っていた。雨脚が弱くなってきた8時過ぎに「もも」と散歩に出かけた。「もも」には「もも」が嫌いな雨合羽を着せた。紅色の百日紅(サルスベリ)や白い木槿(ムクゲ)の花が咲いている。道路の所々に仰向けの蝉の亡骸がある。田圃から秋の虫の音が聞こえる。稲穂が生える田圃の中からなのか周囲の畔の草むらからなのかは判らない。夏野菜の「生り」はそろそろお終いである。キュウリのツルや葉が枯れている。
 ゴルフコンペへの参加のお誘いを受けていたが、かなり体力が落ちていてまともに参加できそうにないので、今回も不参加とした。近所では、E家が現在地で家を建て替えるということで、旧建物の取り壊しが行われている。かつて母と懇意にしていただいた女性が亡くなったとの話を聞いた。小坂振興事務所に行って通夜・葬儀日程を尋ねると、既に昨日18日に葬儀が終わっていた。


 

血圧低下 (2011.08.18)
 処置(点滴)室の薄緑色のベッドに横たわって、細い管を通って静脈に生理食塩水が入っていくのを眺めている。日は変わってもう8月11日になっていた。リズミカルに落ちる生理食塩水の水滴を眺めながら、「今年は飛騨文芸祭への作品の応募をあきらめよう」と思った。随筆と現代詩への応募を望んでいたが、募集期限の8月15日(消印有効)までに応募可能な作品は書けそうになかった。
 点滴液が無くなりそうになった午前1時頃、看護士さんが血圧を測ってくれた。夜間診療当番の医師が「100を回復しましたか」と看護士に尋ねる。「90です」・・・看護士さんが答える。収縮期血圧(最高血圧)の数値である。高血圧の治療の薬を飲んでいる私の収縮期血圧(そして拡張期血圧=最低血圧)が下がってしまっているのである。
 国際交流サッカー試合、日本Vs韓国戦が日本チームの勝利で終わりに近づいたころ、視界がくすんできているような気がした。胸も苦しい。家庭用血圧血圧計で血圧を測ってみると、最高血圧が60、最低血圧は40 未満である。しばらく我慢をしていたが、気分が悪い。以前であれば小坂診療所へかかることもできたが、今年4月から常勤医師が1人となってしまい、夜間・休日医療、救急医療は受け付けられないということで、夜間に小坂診療所は利用できなくなっている。こんな症状で救急車は呼びたくない。が、息苦しさと不安が強まってくる。妻に岐阜県立下呂温泉病院に診療を受けられるか聞いてもらう。「来てもらってもいい」とのこと。
 夏負けなのか熱中症気味なのか、食欲がなかった私は朝食を抜いたので、朝食後に飲む血圧の薬を朝には飲まなかった。「食後に飲む」ことが効果有るのだろうと思いこんでいた私は、昼食後、午後1時を過ぎてから血圧の薬を飲んだ。午後5時過ぎから焼酎を飲んだ。
 「焼酎はどれほど飲みましたか?」「判りません」・・・私はアルコールを量って飲んではいないのだ。「血圧の薬なんて血圧が高くなる朝に飲むものですよ。それを午後に飲んで、それほど時間を開けずに夕方から血圧を下げる効果があるアルコールを量が判らないほど飲めば血圧が下がってしまうのは当たり前です。反省を要しますね。血液中の水分濃度を高めましょう」。
 「家に帰っても、最高血圧が三桁になるまでは水分補給をしてくださいね」と言った看護士さんに、「睡眠導入剤を常用していますが、今夜も使っていいでしょうかね」と尋ねると、「今夜はやめたほうが良んじゃないですかね」と言う。帰宅して床に横になったが、睡眠導入剤を飲まなかった私は朝まで眠れなかった。
 高血圧も苦しいが低血圧も決して楽ではないのだということを実感した夜だった。


 

ズッキーニが採れた (2011.08.09)
 昨日は高山市久々野町引下の国道41号で小坂町在住の高齢者夫婦など3人が交通事故で死亡した。御嶽山麓の山中に女性が遺棄された事件の犯人の特定が進んでいる。そんな今日、夕方に畑に行こうとして車を動かそうとすると、エンジンが掛からない。バッテリーがあがっている。調べてみると後部右ドアが半ドアになっていて、バッテリー電源が放電してしまって無くなっているらしい。エンジンスタートにはブスターケーブルを使ってエンジン始動させなければならない。我が家にはブスターケーブルを接続するもう1台の妻子が使っている車があるが、その車は買い物に出かけている。買い物に出かけている妻子の車がもどってくるのを待っていると、救急車両がけたたましいサイレンの音を立てて我が家の近く近づいてきた。我が家から50〜100mのところのダム沿いに防災ヘリ、ドクターヘリの緊急ヘリポートがある。どうやらそのヘリポートに岐阜県のドクターヘリが来るらしい。何が有ったのかは判らないが、救急患者を岐阜に運ぶらしい。
 妻子の車が帰って来てから、ブスターケーブルを使ってエンジンを始動させ、草だらけの畑へ行った。採れているトゲのあるキュウリの他に、今日初めて黄色ズッキーニが2本採れた。


 

大野政雄さん (2011.08.03)
 テレビ東京系列の〈開運!なんでも鑑定団〉という番組は、岐阜県では「ぎふチャン」(地上D・081=岐阜放送)で放映されている。私は〈開運!なんでも鑑定団〉を録画し、その録画を見ることとしている。8月2日に放映された〈開運!なんでも鑑定団〉の録画を翌3日の夕方に見た。
 名古屋市在住の大野博見さんが登場した。高校の1年先輩であり、現役で東京大学に合格・進学した人だと思う。その博見氏が、島崎藤村の自筆書簡を持って登場したのである。斐太高校の国語教師であり、飛騨の民俗・歴史研究家の重鎮であった大野政雄さんの保管書物・文書に、島崎藤村からの自筆原稿があったというのである。
 私は島崎藤村に興味がない。大野博見氏にもそれほど興味がない。が、大野政雄さんには興味がある。政雄さんは私の高校1年生の時のクラス担任であった。どうしようもない学力劣等生として高校生活3年間を過ごしたが、大野政雄さんは「高校にもこんな教師がいるんだ!」と小中学校、大・短学とは異なる先生であることを知った。
 大野先生の実家は飛騨国分寺近くにあると思う。


 

もっと知られてもよいこと (2011.06.18)
 6月8日の午後である。萩原町にある星雲会館で開かれた「下呂市文化財保護巡視員会議」が終わった後、同じ星雲会館にある「はぎわら図書館」に立ち寄ってみた。並んでいる書架を眺めていたとき、私は「えっ!」と声を上げて驚いてしまった。無造作にではあるが、『飛騨春秋』が創刊号から年度ごとに(たぶん全号)綴られて残っているのである。
 旧小坂町の青少年図書室にも『飛騨春秋』は有った。が、ある時廃棄されてしまった。そのことに気付いた私は図書室を管理する教育委員会事務局職員に「『飛騨春秋』をどうしたのか」と尋ねた。「書架の空きが少なくなってきたので、古いあまり読まれていない本・書籍は処分した」とのこと。「猫に小判」「豚に真珠」・・・怒っても後の祭である。
 その、小坂町では廃棄されてしまった『飛騨春秋』が残っている。私は夢中になって目次を眺めていった。第13年第1号(通算127号)に、『飛騨春秋』の編集発行人である桑谷正道氏が「〈私の聞き書ノート・1〉一刀彫の話(元田月山氏)」と題した一文を載せていた。飛騨一刀彫の大成者である松田亮長の長男である桃吉さんのことも書かれている。松田亮長は明治4年に72歳で亡くなっているが、そのときわずか6〜7歳であった桃吉さんは、やがて小坂町で「京丸屋」という料亭を開いた。そのことについてはいずれ書きたい。
 6月16日の午後である。再び「はぎわら図書館」に『飛騨春秋』の目次を眺めに出かけた。昭和52年3月10日発行の『飛騨春秋』第22年第3号(通算227号)に詩人の西村宏一さんが「もっと知られてもよいこと」という文を寄せていた。「もっと知られてもよいこと」で西村さんは飛騨高山に関する田中冬二の作品を紹介している。スペースの関係で箇条書き的にする。

幼いものが泣くと 私は云った/−お父さんと 飛騨高山に行かうね と/私はまた妻と争などをして/何か憤しい時にも 幼いものに云った/−お父さんと 飛騨高山に行かうね と
真夏の日中は 紫外線が強く テニスも出来ない程あかるい町/そして夜は 冷え冷えして 暗い辻に/枇杷葉湯売の赤い行灯の出てゐるような古いしづかな町/冬になると 雪がいっぱい積もって/雪あかりが侘びしいかげをつくるやうな町
かつての日の幼いものたちも もう成長した/私も妻と争ふやうなことがあっても 意に介さないやうになった/そして私は老いた/−お父さん 飛騨の高山のやうな しづかな処へ行って 好きな読み書きしたら如何(どう)/と妻や子供から云われるやうになった

 他にも次の2作品が載っている。

暗い坂を下りてくると/空を時鳥がないて過ぎた/宮川の橋は灯してゐた
宿ではつめたい白玉に砂糖をかけて出してくれた

われは軒低き家並の蒟蒻屋を/葉茶店にして種物屋を/名産渋草焼春慶塗を鬻ぐ家を/菅笠蓑糸経など売る店をのぞきて歩きたり/燭光弱き電灯を下げ/子供等の復習し居るあり/一日の売上を算し居るあり/尺八を吹き居るあり/・・・

 平成の世になってから、西村さんから「どんな詩が書きたいんだ」と問われ、私は「田中冬二のような詩です」と答えたことがある。その思いは、まったく詩作品を書けなくなっている現在でも変わってはいない。誰にも読んでもらえなくても、田中冬二のような詩作品を書いてみたい・・・それが私の詩人の端くれとしての性である。


 

ハコネウツギ (2011.06.18)
箱根空木  借りている畑地の近くに白や赤(ピンク)の花が咲いている木がある。「何んの木か?」と『よくわかる樹木大図鑑』(平野隆久著・永岡書店)で調べてみる。非常に個性的な花なのだが、『よくわかる樹木大図鑑』の「花の特徴で探す索引」欄を見てみるが、該当するものが見つからない。
 老妻は「あれはウツギだ」と言う。だが、『よくわかる樹木大図鑑』の「ウツギ」(別名ウノハナ)の欄を見てみると、そこで紹介されている花の姿は別物であった。
 索引に頼ることなく『よくわかる樹木大図鑑』のページを繰っていると、「花の特徴で探す索引」に載っていない樹木が多いことに気付いた。「ウツギ」の他にウツギの名の付いた樹木が掲載されていることに気付く。「タニウツギ」「ニシキウツギ」「ハコネウツギ」「オオツクバネウツギ」「コツクバネウツギ」「ツクバネウツギ」・・・その内の1つ、「ハコネウツギ(箱根空木)」の花が調べている花にそっくりだと気付いた。ウェブで「ハコネウツギ」を検索してみる。掲載されている花は、借りている畑地の近くにある木の花にそっくりである。老妻に「これではなかろうか」と『よくわかる樹木大図鑑』の「ハコネウツギ」の写真を見せてみると、「確かにこの花や」と言う。「へえっ、ハコネウツギって言うんや」。
 一件落着である。




山法師 (2011.06.17)
山法師  萩原町の飛騨川大橋の羽根側や、岐阜県主要地方道88号線(下呂小坂線)の尾崎から四美にかけての路側に「ヤマボウシ」の樹が植えられている。これまでそれほど気にはならなかったのだが、6月になって白い花のようなものが一面に咲いていると、妙に気になって仕方なくなっていた。
 時折海に出かけたくなる私は、6月15日に白川郷を通って羽咋の滝港、柴垣海岸まで独り日帰りドライブをした。五箇山で国道304号に入る。南砺市の福光を経由して金沢森本で能登半島へ向かう道路に入る。
 たぶん道の駅福光(なんと一福茶屋)を過ぎたところだったと思う。路側に「ヤマボウシ」の樹が植えられていた。気になったのは、白い花の樹に混じってピンクの花の樹があったことである。
 海への独り日帰りドライブをした日の後、下呂小坂線を走っていると、四美の下り川公園にピンクの花の樹が有ることに気付いた。近くに寄って見ると、「ヤマボウシ」であった。
 『小さな庭で楽しむ はじめての花木・庭木』(船越亮二著・主婦の友社)には「淡紅花のベニバナヤマボウシがある」と書いてあった。


 

温泉旅館「下呂館」が事業停止 震災影響、客足落ち込む (2011.06.14)
 岐阜新聞の記事である(Web 2011年06月14日09:49)
 《帝国データバンク岐阜支店によると、下呂温泉街で旅館を経営する下呂館(下呂市森、K・K社長)が13日に事業を停止し事後処理を弁護士に一任した。負債額は約7億7,000万円。東日本大震災に伴う客足の落ち込みが影響したとみられる。同社は1965年に設立、温泉旅館「ホテル下呂館」を経営。下呂温泉街では中堅クラスに位置付けられ、近年のピークの2001年4月期には売上高約4億円を計上していた。だが、東海北陸自動車道が開通したころから客足が遠のき始め、2008年11月期には約1億4,000万円まで減少した。震災は下呂温泉全体でも大きく影響。宿泊者数が3、4月は前年同月比でともに約14%減で、この2カ月間だけで約2万3000人減少。長年維持してきた、年間宿泊者数100万人以上の大台を昨年度で割るなど大きな打撃を受けた。関係者は下呂館について「近年、客の落ち込みが目につくようになったが、こんなに早く立ち行かなくなるとは。苦しいのはどこも一緒だが」と驚いた》。
 「ホテル下呂館」のK・K社長はたぶん高校の同級生だろうと思う。K・K社長は高校の同窓会に出てきたことはあるのだろうか?、高校卒業以来有ったことは無いように思う。利害関係も何も無い。ただ、下呂温泉も中堅ホテルは経営が苦しいらしいと聞いていた。同級生であるということだけで、「ホテル下呂館」も何とか事業が上手く行けば良いのだがと思っていたが、かなり厳しい選択を迫られていたようだ。栄華盛衰、諸行無常、一寸先には何があるか判らない・・・、「ホテル下呂館」事業停止の報道を読んで、そんなことを思った。




新緑の下で弁当を食べる (2011.06.10)
 『よくわかる樹木大図鑑』(平野隆久著・永岡書店・税込1,575円)を買ってきた。名前を調べてみたい樹があったからである。
 私の父は営林署で長年(定年+&年まで)造林の職務に携わってきた。戦後の日本は復興のために日本の山林の樹木を伐採し、ある意味では荒廃させてきた。樹木を伐採した小坂の国有林の跡にヒノキや杉などを植えていくのが父の仕事であった。長年国有林を眺め、調べ、そして樹を植えてきた父はある程度樹木について体験的知識があったことだろう。が、恥ずかしいことに私は樹木についてほとんど判らない。以前、愛犬との散歩中に岐阜森林管理署貯木場に行くことがあった。公売される木材の切口を見て、何となくヒノキと杉の違いは判るようになった。ただ、その判断が正しいのかどうかは、誰にも質問していないので判らない。
 晴れてお出かけ日和となった5月18日、私は高山に出かけた。石浦に在るスーパーマーケットで398円の幕の内弁当を買い、高山・城山公園二之丸児童公園に行った。私は高山の街の一角が眺められる場所に造られている石材のテーブル・椅子に座って、家から持ってきたペットボトルのお茶を飲み、398円の幕の内弁当を食べた。
 5月24日の日記に次のことを書いている。「美女街道経由で高山に向かう。城山公園の駐車場に車を停め、上三之町、本町などの通りを歩く。午後4時に城山公園にもどり帰途につく。二之丸児童公園では何組かの高齢者グループが新緑を愛でる宴を開いていた」。
 ところで、5月18日に幕の内弁当を食べる私の頭上で輝いていた新緑の樹は何という樹なのだろう。
 『よくわかる樹木大図鑑』を眺めていると、葉の形が似ているような・・・? 樹皮に斑模様があったような樹がする・・・ そんな樹があった。「モミジバスズカケノキ」「アメリカスズカケノキ」である。




原発事故 (2011.06.06)
 ドイツのキリスト教民主同盟 (CDU) 党首であり、第8代ドイツ連邦共和国の首相であるアンゲラ・ドロテア・メルケルさんは、福島第1原発事故後、ドイツ国内での原発稼働を停止させていくという方針を持ったようだ。旧ソ連・チェルノブイリ原発事故を契機に原発の発電をしてこなかったイタリアに次ぐ、ドイツの脱原発の考え方である。が、イタリアもドイツも原子力発電無くして自国の電力は賄えない。原子力発電大国フランスから電力を買っているし、今後も依存しなければならない。「自国内では原子力発電はしないが、原子力発電には依存する」・・・それがドイツやイタリアの考え方であるらしい。
 ドイツの原子力発電所・・・私はそのシルエットを見たことがあった。何時、何処で、その機会は1990年11月の初海外渡航のとき1回のみである。私は初海外渡航のことを未完の『物見湯賛土産話』に書いている。
 『物見湯賛土産話』に原発について書いたことがあるような気がして調べてみた。バイエルンでのことで、ミュンヘンからパッサウに向かう途中に原発を見たと書いてある。

 ミュンヘンを午後4時半過ぎに出てアウトバーンに入り、バスはイザール川沿いに北東に進み、ミュンヘンから145.5q離れたオーストリア国境にある街・パッサウに向かう。
 アウトバーンに入ってしばらくしてから車窓は暗くなっている。しばらく進んでから闇の中に煙を吐いている台形状のシルエットが浮かんだ。何なんだろうと思っていると、クニコさんがあれは原子力発電所だと説明してくれた。私には1986年のチェルノブイリ原発の爆発事故の記憶がいまだに生々しい。その爆発事故によって、欧州各国の農産物の汚染が心配されている。ところで、ドイツ・アルプスを南に抱くバイエルン地方には海が無い。日本の原発はたいてい海の側にある。ドイツではこんな所でも原発が稼働しているのかと驚くとともに、ボヤっとした明かりの中に浮かび上がっている台形に不気味さを感じた。

 Yahoo!ニュースに『<福島第1原発>1、2号機炉心溶融「東電解析より早期」(毎日新聞:6月6日(月)21時59分配信)』という記事が載っていた。
 経済産業省原子力安全・保安院は6日、地震直後の東京電力福島第1原発1〜3号機の様子を解析した結果を発表した。東電の解析に比べ、メルトダウン(炉心溶融=ろしんようゆう)は1号機で10時間、2号機で29時間早く、1日以上早く放射性物質の放出が始まった可能性がある。3号機では東電の解析より事故の進行は遅かった。両者の差は解析方法の違いだが、保安院は「より実態に近い」と語った。一方、放出された放射性物質を、圧力抑制プールが損傷した2号機で過小評価があったとして、従来の37万テラベクレル(テラは1兆)を77万テラベクレルに修正した。

 メルトダウン(炉心溶融)とは、原子炉中の核燃料体が過熱し、多くの燃料集合体が、もしくはさらに炉心を構成する制御棒等も含めて、融解すること。融解とは物理学で固体が液体に変化することであるという。重大な場合は、放射性物質の外部への拡散を引き起こすこともある。
 もう20年以上前のこと、チェルノブイリ原発の爆発事故の報道を見聞したときや、ドイツ・ニーダーバイエルンの原発のシルエットを眺めたときには、悪寒を感じたが、すぐに忘れたし、まさかこの日本列島で原発のメルトダウンや放射性物質の外部への拡散ということが起きようとは思いもしなかった。恐ろしいことだ。この日本で原発事故が起きることを想定していたひとはいかほどいるのだろう。
 正直、メルトダウンを理解してイメージすることができない。「テラベクラル」という単位をpやgのような単位として理解できずにいる。また、放射線被ばくによる影響やなぜ周辺住民がすべてを置いて避難しなければならないのか、凡人である私には判らないことだらけである。




ようやく畑で草取り (2011.06.04)
 畑




関西風出汁巻き卵 (2011.06.02)
 使っているのは日高である。利尻ではない。出汁を取るには利尻を使ったほうがいいらしいが、正直なところ日高昆布と利尻昆布との違いを私は判らない。我が家は料亭料理を作るわけではなく、日高より高い利尻をどうしても使わなければならない理由はない。
 日高昆布を3g(4p角)に切って200tの水に1時間ほど浸す。それを火にかけ、沸騰する前に昆布を取り出して火を止め、削りカツオ3gを入れて1〜2分待つ。ガーゼで濾して塩を一摘み加える。
 最初、指南書を曖昧に読んでいたので、削りカツオは30g必要だと思っていた。30gを量ってみると、中皿にいっぱいになった。200tの水にそんなに削りカツオが必要なのかと指南書を確認してみると3gと書いてあった。
 泡立てないように荒く溶いた4個の鶏卵と出汁を混ぜ、四角のフライパンで焼く。
 関西風出汁巻き卵は上手く焼くことができなかった。グチャグチャになった。塩を入れ過ぎたかもしれない。少し塩辛かった。
 関東風出汁巻き卵には砂糖が入るそうである。関東風出汁巻き卵も作ってみなければならないと思う。




(2011.06.01)
 もちろん人それぞれであるが、人体は老いると傷んでくる。1月に左足踵付近を骨折したのは、愛犬との朝の散歩中に、小坂診療所の駐車場のアスファルト面が凍結してアイスバーンになっていたことに加え、その凍結面に薄っすら雪が積もっていたことに気付かなかったために滑って転んだことが原因である。私が骨粗鬆症気味であったことも骨折に関わったことだろう。その骨折はようやく治癒に向かっている。
 高血圧症、鬱質・不眠症、過敏性腸症候群(IBS)、尿路感染症の疑い、緑内障、飛蚊症・・・それに加え、最近、右耳がぽわ〜んとするようになった。空気圧が急激に変化したときに起きる耳の中のぽわ〜ん感が続いている。耳鼻科を受診する。「めまいや頭がボ〜っとすることがありますか」との問診、「有る」と答える。「この症状が重くなったのがメニエール病です」と耳鼻咽喉科の先生はおっしゃる。「でも断定はできないので、数日後に再来してください」・・・。
 「まめなかな」(「息災ですか」)「まぁこんなもんやさな」・・・小坂診療所の待合室でこんな会話が交わされる。診療を受けにきているのだから「まめ」(息災)で有るはずがない。でも、小坂地域に私よりも高齢者が頼りにしている診療所が残っていて、高齢者が不安なく医療(診療)を受けられることだけでそれはとてつもなく有り難く素晴らしいことだと思う。
 戦前に設けられた小坂国保診療所・・・慶応義塾大学から医師・看護士が派遣されてきて、小坂という田舎町で当時の最先端医療を施したようだ。「東京から来た看護士は息を飲むほど美しかった」と亡実母が話してくれたことがある。
 診療所→病院→診療所として小坂の医療を支えてきたことについて調べてみたいと思っている。その他には、はとやと良安のトンチャン、今は途絶えた松島屋のケイチャン、としちゃん食堂の豚(トン)ちゃん、こめとらの中華そば、蒲亭の朴葉寿司、今は無き京丸屋の蒸し寿司、湯屋温泉の鉱泉粥や山菜鍋や蕎麦・・・そんなことも勉強したいと思っている。また、益田西国三十三箇所を訪ねてみるのも良いのかと思っている。
 




菜園作り (2011.05.28)
 2011年5月21日の朝日新聞『be on Saturday・be ランキング』に「女性がリタイア後に楽しむ習い事」という記事が載った。男性編は昨年紹介されたようだが、記憶に無い。@外国語 Aヨガ・ピラティス B書道 C菜園作り D生け花・フラワーアレンジメント E楽器演奏(ピアノ以外) F絵画・イラスト Gピアノ H料理 I陶芸 である。男性編(昨年9月調べ)も載っている。@菜園作り A料理 B楽器演奏(ピアノ以外) C外国語 D登山・トレッキング E写真 Fそば打ち G絵画・イラスト H囲碁 I盆栽・園芸。女性4位、男性1位に「菜園作り」がランクインしている。
 今、私の周囲の菜園では玉葱や葱が伸び、ジャガイモが育ち、絹サヤエンドウの花が咲いている。多くの人がトマト(桃太郎他)や各種キュウリ、ナス、シシトウ、ピーマン、カボチャなどの苗を育てている。私の借りている畑には、昨年植えた玉葱、ニンニク、ラッキョウが有るだけだ。トマトやキュウリの苗が売りに出された黄金連休頃は、私の体調はまだ畑仕事ができる状態に無かった。もちろんそれよりも早い時期にジャガイモの種芋を植えることは出来なかった。




英国王のスピーチ (2011.05.26)
 第83回アカデミー賞作品賞受賞作品『英国王のスピーチ』(原題 The King's Speech)を観に高山旭座に行った。木曜日午後2時15分からの2回目の上映である。高山旭座にはオスカー1(100席)、ミラノ2(130席)、ウエスト3(120席)、サウス4(120席)の4つの上映場所がある。『英国王のスピーチ』はサウス4で上映されていた。我が家から美女街道経由で車で約40分、高山旭座の駐車場に着いたのは午後2時少し前であった。高山旭座の駐車場にはかなりの数の車が停まっていた。
 1回目の上映が終わった午後2時過ぎにサウス4に入った。高山旭座はシニア(満60歳以上)であれば1,000円で入場できる。自動券売機で1,000円の入場券を買い、「もぎり嬢」に運転免許証を差し出してシニア(満60歳以上の年寄り)であることを示して1,000円の入場券でサウス4に入る。
 120席だというサウス4の後ろから3列目の真ん中の席に座る。私以外誰もいない。今日は『英国王のスピーチ』の他に『戦火の中へ』『パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉』『SP革命篇』が上映されている。高山旭座の駐車場にはかなりの数の車が停まっていたのは、『パイレーツ・オブ・カリビアン 生命の泉』を観に来た人が多かったのかなと思う。サウス4では2時10分過ぎから暗くなり予告編が上映された。ビッグコミックオリジナル(小学館)に連載されている石塚真一さんの作品「岳 みんなの山」の実写映画化版『岳 -ガク-』、6月に公開予定だというスピルバーグ&J・J・エイブラムスの新作「スーパー8」など・・・予告編は本当に「観てみたい」と思わせる。実際に観てみると愕然と失望する作品が多いけれども・・・。後側で物音がした。私の他にも1人観客がいるらしい。120席の映画館で観客は2人である。
 かつて私の母は、私が中学生のときの保護者面談で担任教師から「お宅のお子さんは吃音が有るんじゃありませんか」と言われて心配したことがあると私に話してくれたことがある。私は、吃音では無かったが、似た症状を有していて、話すことが下手だったし、多くの人の前で話すことが苦手だった。人前で話さなければならない機会が有る際には、何日も前から心が沈んだ。
 私は涙もろい。1974年(1月6日?12月29日)に放送されたズイヨー映像のテレビアニメ作品『アルプスの少女ハイジ』を観て何度泣いたことか。吃音故にスピーチに思い悩むジョージ6世の、権力者で有ろうと無かろうと悩みを抱く1人の人間の苦しみ・悔しさが判る。私は映画を観ながら闇の中で涙を流した。
 ヒットラーという飽くなき非人道的なアジテーター(雄弁)との対比が、ジョージ6世のゆっくりとした英国王のスピーチを生かすこととなった。





今日も雨 (2011.05.11)
 部屋のごみを片付けていると、いつ書いたのか分からないメモ用紙が出てくる。
 《ショッピングセンターの無料休憩室には焼きパンの匂いが漂ってくる。私は自販機のコーヒーを飲みながら、玄関を出入りする人々をぼんやり見つめている。鶏頭の花も葉も枯れ・・・。寒風に晒されて古ポスター「元気な日本を復活させる」》《なんと一福茶屋、能登有料、宝達志水でランチ昼食、甘海老・穴子・蟹爪・野菜の天麩羅と刺身盛。氷見の阿尾の浦で羽咋で買った焼きイカの残りを食べる。「アスファルトの焦げる臭いや夏近し」》
 言葉が出てこない。私の中で〈何か〉が荒立っている。狂(ふ)れている。私は言葉を咽に詰めてのたうちながら窒息死しないように喉元を掻きむしっている。
 今日も雨・・・「田蛙の叫び賑わし透明の漆黒の時ただただ過ぎぬ」「行けないなカルロビバリは遠くってたぶん二度とは行けない町よ」「ヨーイドンスタート地点で転けているいつものようにいつもと同じ」。




せめて草取りをしよう (2011.05.10)
 小坂ダム添いの八重桜が咲いている。チューリップの花は散り始めている。そう、花桃街道の花桃も雨に打たれて散っている。
 連休明け、農協の物資小売販売部門(A-Coop)の店頭では、キュウリ、トマト、カボチャ、シシトウ・・・いろいろな野菜苗が入荷して売られている。 去年の今頃はいろいろな苗を買って畑に植えた。が、諸般の事情により満足に世話をすることができず、野菜を充分に育てることができなかった。ギリギリと歯ぎしりをしながら、「来年は家庭菜園三昧をしてやろう」と思っていた。
 凍季にした左足踵の骨折がまだ完全に治っていない。畑を耕すミニ耕耘機を使うことができない(できるかもしれないけれど、まだ不安で使うことができない)。畑は草だらけで、施肥がされていない。今春は野菜苗を買うことができない。苗を買っても、植えて、そして育てることができないのである。
 「家庭菜園三昧」はできないけれども、家で燻っていても仕方がないと、今週からはせめて畑の草取りくらいはしようと思っていた。昨日月曜日は所用があったので何もできなかった。が、今日から草取りに出かけようと思っていた。「そんなものだろう」・・・今日は雨、天気予報では今週は雨が降るという。
 今日、雨の中、久しぶりに義兄から無償で借りている畑地に行ってみた。昨年秋に植えた玉葱がひ弱に育ってくれている。野イチゴに近い義母が植えた苺の白い花が咲いていた。
 今週が雨なら、来週から畑地の草取りに行こうと思った。





黄砂飛来 (2011.05.02)
 所用で飛騨高山に出かけた。晴れてはいたが、国道41号の周囲の山々が霞んでいることに気付く。「黄砂?」・・・黄砂飛来はこんな時期のことだったっけ・・・新聞社のウェブページを見てみると東海地方への黄砂の飛来は今年初めてのことのようである。
 飛騨高山からの帰途、高山市一之宮町(旧宮村)の河川敷に設けられた臨時駐車場に多くの車が停まっているのを見かけた。幹枝の形が龍の臥した姿に似ていることから名付けられた国指定天然記念物「臥龍桜」、その樹齢1100年のエドヒガンザクラの大樹はJR飛騨一ノ宮駅の近くに作られた臥龍公園に在る。その「臥龍桜」が例年より1週間以上遅れて見頃を迎えているのであろう。
 今年は飛騨への春の到来が遅かった。古典の和歌に登場する「春霞」には、黄砂による霞もあったのではないかと言われている。平城京や平安京の春の到来は飛騨の春の到来よりかなり前だったと思われるで、黄砂による春霞は3月ぐらいの現象であったのではないか。「東海地方への黄砂の飛来が今年は初めてのこと」だとすれば、中国内陸部でも春の到来は遅く、偏西風に黄砂を巻き上げる春の風が吹くのが遅くなったのかもしれない。




いつかは復旧 (2011.05.01)
 仙台市泉区で営まれている南インド料理店「チットラ」のHPとシェフのブログが久しぶりに更新されました。多々被害を受けながらも何とか生業を継続して行こうとするシェフの気負わない意欲に安心をしました。震災を受けたシェフに、何か、どうかして支援をしたいと思いつつ、何もできていないのが私の現実です。
 御嶽五ノ池小屋管理人のブログを見ると、東日本大震災被災地にボランティア作業に出かけられたようです。「すごい行動力!」・・・感嘆してしまいます。
 下記の「勝手にリンク集」から、南インド料理店「チットラ」のHP・ブログや御嶽五ノ池小屋管理人のHP・ブログへのアクセスができますので、どうぞご利用ください。




お花見をしましょう (2011.04.23)
4月20日夕方の萩原町川西(四美〜羽根)の風景です。
[写真はクリックすれば大きくなります]
四美しだれ桜 羽根農村公園桜 遠景
白壁 農産こうじ村 羽根お宮




焼きイカ (2011.04.14)
千里浜  春の光に照らされて小刻みに寄せてくる波を見ていた。なぎさドライブウェイの羽咋側終点にある大型土産物店の売店で買った1杯400円の焼きイカを食べながら、千里浜の遠浅の海を見ていた。歯が弱く咀嚼能力が減退した私は、甘ったるいタレを塗られて焼かれたイカを容易に噛み捌くことができなかった。「だっしゃむなく」1本の串に刺されたイカを食べながら、この姿は他の人には見られたくないと思った。幸い付近に人影は無かった。
 が、私は落ち着かなかった。視線を感じていたのだ。焼きイカを食べている私から2〜3m離れたところに1羽のカラスがいたのである。見ていたのか嗅いでいたのかは分からない。が、そのカラスは確実に私が持っている焼きイカを意識していた。
 ヒッチコックの「鳥」ほど大袈裟ではないが、カラスは私の焼きイカを狙って飛び掛かってくるのではないか・・・そんな恐怖を感じて、私は焼きイカを半分ほどプラパックにしまい、海岸から離れた。カラスが距離を保ちながら私についてきているのを感じた。
 残りの焼きイカは、県境を越えて氷見の海岸に行ってから食べた。氷見の道の駅には「トンビが残飯を狙っている」との表示があった。




無気力・無欲・無感動 (2011.04.04)
 〈区長〉という役職を免ぜられて3日が過ぎた。4日目である。4月1日には区民の葬儀があった。香典を持って区民の葬儀に参列して区民を代表して焼香するのも区長の役目の1つである。大島諏訪神社の春祭の試楽祭が4月2日夜に神社で行われ、翌3日午前には本楽祭が執り行われた。試楽祭、本楽祭に詣でて、玉串を奉奠するのも区長の役目の1つである。3月31日をもって〈区長〉という役職を免ぜられた私は、そのいずれにも出る必要は無く、平成23年度の区長がその御役目をつつがなく果たされた。
 私の住む「大島区」には11の「組」がある。地区自治は「組」単位で行っている。私が住んでいる地区は「大島7組」である。大島諏訪神社の春祭の際には、大島7組住民は地区内の祭はた(幟)立てとはた倒し、そして神幸祭(御旅)の御旅所設営を担当している。今年は神幸祭(御旅)が自粛されることとなったので御旅所設営はしなかった。4月2日の朝7時から祭はた立ては行われたし、本楽祭が終わってからはた倒しは行われた。左足の怪我が治りきっておらず、まだ足を踏ん張っての力仕事ができない私は、はた立てもはた倒しも欠席させてもらった。今の状態では4月17日に実施が予定されている「区内水路・防火水槽一斉清掃」での作業もできないかもしれない。足の怪我が治り、体調が悪くなければ、「大島7組」の自治活動には積極的に参加したいと思っている。6月には杣人(そまびと)公園の花壇整備があるだろう。その頃には足の怪我も良くなっていると思うので、その活動には参加したいと思っている。
 私はこれからどう生きて行くのか・・・〈区長〉という役職を免ぜられてから、私は〈区長〉であったときとは違った苛立ちに襲われている。家庭菜園で野菜を作りたい、清流で渓流釣りをしたい、家庭料理にチャレンジしたい・・・所得というものを得られないという意味で非常に非生産的ではあるだろうが、何もしないよりは何かをしたほうが良いだろう的な立場で、それらのことをしようと思っていた。が、左足踝骨折は、4月の畑作の可能性を狭めた。昨年秋から放置してきた畑は荒れている。4月にその畑を耕耘し、除草し、土作りをするということをしたいと思ってきたが、難しい。ジャガイモの種芋植えは時期を失してしまうだろう。
 否応なく、無気力・無欲・無感動・・・そんな私の今年の4月。




寒く薄暗い4月の始まり (2011.04.02)
 例年より遅れてはいるが花の東京のお花見シーズン、「春のうららの隅田川」の遊覧船の花見乗船予約取り消しが相次いでいるという。8割以上予約取り消しがあって、お花見シーズンの遊覧乗船客は激減しているという。東日本大震災(東北関東大震災)で多くの人が亡くなったり家財を失ったりして難儀しているときに「お花見でもないだろう」と、行楽が控えられているようだ。下呂温泉や飛騨高山も観光客は少なくなっているのではないか。私の住む山間の町では4月上旬に神社の春祭が行われるが、町内の神社庁所属の神社では今年の春祭では神幸祭(御旅)は行わないとの申し合わせが行われたそうだ。自粛、自粛、自粛・・・確かにそうすべきなのかもしれないが、本当にそれで良いのだろうか。そうした風潮によって被害を被る人たちもいるのではないか。
 4月1日である。自宅に閉じこもっていることに苛立ちを感じて、飛騨高山へ出かけた。左足踝を骨折して以後2カ月半、傷めたのが左足で有ったという幸運もあってオートマチック車を運転できるようになっている。久々野から美女街道(一般国道361号)を経由して高山市大八に入る。書店に立ち寄る。宮本輝の『三千光年の星たち』という単行本上下2巻が発売されていることに気付いて購入する。宮本輝の、私の好きな作品の1つに『にぎやかな天地』がある。発酵食品をテーマにした作品だが、その中には阪神・淡路大震災が登場する。新たな住まいを確保して希望に満ちた若い夫婦が乳児ごと建物の崩壊の下敷きとなっていく場面で、私はやるせない不条理を感じた。今回の大震災でも多々不条理があるのだろう。
 自粛気配が漂う中でお客さんが減っている事業者やその産業に勤める労働者は、景気の回復や活性化を声高に叫び辛いかもしれないが、今の世の中、自粛、自粛で本当に良いのかと思われてならない。




変化できるものが生き延びる (2011.03.27)
 「ビッグバン」と呼ばれる現象がある。宇宙の誕生である。137億年前のこと、宇宙は「時間と空間の区別がつかない一種の〈無〉の状態から忽然と誕生し、爆発的に膨張してきた」とされている。存在が、時間と空間の区別がつかない一種の〈無〉の状態から忽然と誕生するなどということは、凡人である私にはまるっきり理解することができない。宇宙は今なお膨張し続けているという。では、膨張し続ける宇宙を包み込んでいるものは何なのか・・・凡人である私にはそれもまるっきり理解することができない。
 ウィキペディアフリー百科事典によれば、銀河系の年齢は現在「約129億年と見積もられている」そうだ。その銀河系の中で太陽、そして太陽系内の地球は約46億年前に誕生したとされている。
 宇宙の中には地球と同じように生命を育める星が多数存在するらしい。「だから、地球人と同じような宇宙人はいる」と考える人たちがいる。どこかにはいるかもしれないが、太陽系の中には〈地球人〉と同じような存在はいないだろう。
 地球上の生命の存在は奇跡の連続・連鎖の結果以外の何者でも無く、2度と同じことは起こり得ないだろうことのように思われる。灼熱の硫酸の中から生じた生命が、冷えた海水の中で生き長らえ、生じた陸に上がって毒に近い酸素を吸って生き、熱球と化した地球、凍結する地球の上で生き延びてきた。
 私たちはホモ・サピエンスの末裔とされている。類人猿から霊長類に進化した生命体はホモ・サピエンスだけでは無い。たくさんの生命類が種の保存を試みた。ネアンデルタール人もその一種である。が、生き延びることができなかった。
 地球46億年の歴史の中で一番長生きしているのはクラゲだそうだ。恐竜も長く繁栄したが滅びた。ホモ・サピエンスの時間的存在は恐竜にはるかに及ばないようだ。
 小坂小学校の「卒業証書授与式」(卒業式)で、校長先生が式辞で、「生物学者のダーウィンが、生き延びていくのは強い者でも賢い者でも無く、変化できる者だと言っている」と話された。正しくはどう話されたのかは分からない。たぶん、卒業生である小学校6年生は何のことだか分からなかっただろうし、その場に居合わせた多くの人はそれほど気には留めずに聞き流した言葉であったことだろう。
 小学6年生に語る話では無かったかもしれないが、私にはとても大切なことのように思えた。地球46億年の中で生き延びてきたのは、状況の変化に対応し得た種で有り、不可能を可能に変えてきた種であり、変異・進化をしてきた種なのである。




二木さんからの電話 (2011.03.24)
 暑さ寒さも彼岸まで・・・まだ寒い。午前9時から小坂小学校の「卒業証書授与式」(卒業式)が挙行された。校下地域の区長の立場で来賓として出席した。たぶん、事務引き継ぎを除けば、区長として最後の公務になるだろう。
 「二木ですけど、守ちゃんは震災の被害、大丈夫なの?」・・・二木さんから電話があった。二木さんが電話をかけてくれたことは初めてだったかもしれない。最初は「三木」だと聞こえた。小坂の「お東」のお寺の住職は同級生で、苗字は「三木」である。でも、その声は「三木」家の人たちのものでは無かった。「失礼ですが、どなたですか?」・・・私は問い返した。「二木です」・・・「えっ!、本当にあの二木なの!」・・・二木が電話をかけてくれている。守ちゃんを心配してくれている。
 「うん、地震の揺れは恐怖だったようだけど、命は無事だったみたい。何か支援はしたいけれど、今は何をしていいのかわからない。岐阜のS君とどうすればいいのか相談したい」と答えた。




こだまでしょうか (2011.03.21)
 東日本大震災が起きてから、しばらくの間TVで流されるCMは公共広告機構(AC)のものがほとんどとなっていた。
 そのCMで紹介・放映されたものの1つに金子みすゞの「こだまでしょうか」があった。

  「遊ぼう」っていうと「遊ぼう」っていう。
  「馬鹿」っていうと「馬鹿」っていう。
  「もう遊ばない」っていうと「遊ばない」っていう。
  そうして、あとでさみしくなって、
  「ごめんね」っていうと「ごめんね」っていう。
  こだまでしょうか、いいえ、誰でも。

 私はこれまで金子みすゞの詩集を買ったことは無いし、その作品をまとめて読んだことも無い。
 が、何かのTV番組で『大漁』という詩が紹介され、「えっ!」と思って私は金子みすゞという詩人の名前を脳裏に焼き付けた。

  朝焼小焼だ
  大漁だ
  大羽鰮の大漁だ。

  濱は祭りのようだけど
  海のなかでは
  何萬の
  鰮のとむらい
  するだろう。

 ガツんと脳天を殴られたような気・・・もっと衝撃であったかもしれない。
 
   ※ 鰮=イワシ




区通常代議員総会は終わった・・・ (2011.03.20)
 雨が降っている。現在、3月20日午後10時である。9時過ぎに帰宅し、焼酎を飲んでいる。
 今日午後7時から区の公民館(集会所)で「区通常代議員(定員50人)総会」を開いた。総会には平成22年度の事業報告、区一般会計外4会計決算、区規約の一部改正、平成23年度事業計画及び区一般会計予算案、平成23年度役員報告を上程し、全件承認を得た。
 私の〈区長〉の任期は3月31日までであるが、〈区長〉の仕事の句点(ピリオド)は「区通常代議員総会」であり、その後の任期切れまでの日々は〔追伸〕(PS=postscript)であるような気がする。
 「区通常代議員総会」を終えて、私はようやく重石から逃れることができるのではないかと期待している。けれど一旦常用化した血圧安定剤と睡眠導入剤からはしばらく逃れられそうに無い。
  【PS】
 JR高山本線飛騨小坂駅は4月から無人駅になるそうだ。小坂診療所長のO院長は県立病院に移り、3人の医師が必要な小坂診療所・老健は医師1名態勢になるそうだ。
 いろいろ問題は有るだろう。けれど私は無力である。〈区長〉の職務から離れ、骨折を治して歩けるようになる春の到来を待ちかねている。




友人家族は生命無事なようである (2011.03.13)
 私の知る範囲では、私の住んでいる地域出身の、中学校の同級生2人、近隣に住んでいた1家族が宮城県仙台市で暮らしている。家が近所で幼い頃から知っていて小・中・高等学校が一緒だったM君は仙台市泉区で南インド料理店を開いている。
 3月11日未明に三陸沖・茨城沖で連続して起こった最大マグニチュード9.0という未曾有の地震・大津波で、三陸沖に面した海岸に近い市町村が壊滅に近い被害を負ったとTVが報じている。地獄絵が伝えられている。M君は無事なのか・・・心配ではあったが連絡を取ることはできなかった。翌日、M君の生まれ家へ電話してみると、M君のお母さんが「夕べはMが心配で眠れなかったが、今日孫娘が公衆電話から命は無事だと連絡をしてきてくれて、少し安心しているところだ」と話された。私と同じようにその消息を心配していた高山や岐阜の友人に、「M君の家族の命は無事のようだ」と電話連絡をした。
 M君のお母さんから電話があった。「Mから電話があった。家内ではかなりの被害はあったが、仙台市内では何とか生活物資は確保できている。今のところ緊急に送ってもらわなければならない物は無い。電話連絡が簡単にはできない、順番を待たなければならないそうだ。おまえの友達も心配しているようだと話したら、皆に連絡できるまでにはまだだいぶ時間がかかりそうだと言っていた」とのこと。M君との共通の友人たちには、M君のお母さんの言葉を伝えた。




クララのように立ち上がれ (2011.03.09)
 3月8日である・・・診てもらっている整形外科の先生に「まあまあ順調に推移しています。(踝を骨折した)左足にも加重しても良いでしょう」と言われた。理学療法士(PT)の指導を受けながらリハビリをすることにした。「松葉杖を持たずに歩いてみましょう」と言われた。アニメ『アルプスの少女ハイジ』に登場する、アルムの山でのハイジやペーターやおんじに見守られて歩み出すクララのような心境だった。非常に不安だったが、そして短い距離であったが、何とか松葉杖無しで歩くことができた。骨折場所に痛みは無かった。
 骨折に特効薬は無い。貼り薬も飲み薬も使っていない。ギブスをし、ギブスを切り取った後は添え木をして、添え木を取った後は骨折場所を捻らないようにして・・・自然治癒(自己治癒)をするより仕方がない。8週間という時間を経て、支え無しに立ち上がり歩けるようになったのである。まだ、重いものを持つことはできないし、階段を立って上がることもできない。完全回復にはまだまだ時間がかかると思うが、一番の喜びはオートマチックの車に乗れるようになったことである。車を運転できなかったときには、どこへ行くにも妻に送ってもらわなくてはならなかった。が、妻とて、四六時中私の都合に合わせてくれることはできなかった。私が私の都合で動くことができなかったことで、年度末である2月から3月にかけてやらなければならないことをできなかったということが多々あった。歯ぎしりをしていた。不自由で有ること、それは実際辛いことだ。私がこれから加わっていく高齢化社会には、歯ぎしりの音が渦巻き高鳴っているのだろうなと思った。
 自治会長のお役目は3月末で終わる。今、自治会の今年度の事業報告や会計決算の作成、次年度に向けた事業計画、予算案を作成している。いろいろな意見を持つ人が多いので、総会を難なく乗り切れるとは言い切れない。が、どうあれ、4月1日には私は自治会行政から離れる。
 飛騨小坂の里で春祭が行われ、桜の花の咲く4月・・・私はぎこち無くで有っても立ち上がって歩き、今日とは違った生き方を始めていることだろう。




2011年3月2日雑感 (2011.03.02)
■白線流し
 今朝の新聞に3月1日に斐太高校の卒業式が行われ、「白線流し」が行われたとの記事が載っていた。「白線流し」は斐太高校(斐太中学)の卒業式の恒例行事である。以前TVドラマで「白線流し」が紹介されたことがある。ドラマの舞台は長野県松本市であった。斐太高校の校章は蜻蛉(トンボ)である。トンボを校章としている高校がもう1校ある。松本深志高校である。その関係でもTVドラマで「白線流し」の舞台が松本市になったのかもしれないけれど、「白線流し」を知っている者としては舞台が松本市であることに違和感を感じた。
 いま、NHKの朝の連続ドラマ「てっぱん」に京野ことみさんが出ている。京野さんは「白線流し」に出ていた。私には「てっぱん」の京野さんよりも「白線流し」の京野さんの方が印象深い。
■WBS
 テレビ東京のWBS(ワールド・ビジネス・サテライト)、とても面白い。夕方から酒を飲んで酩酊することが多い私は、夜遅くから放映される番組を見ないまま眠ることも多いので、WBSは録画して見ている。非常に興味深いことも多い。皆さんにも見ることをお奨めしたい番組である。




無事終われ今年の3月 (2011.03.02)
 地区(自治会)の平成22年度会計(単式簿記)の出納閉鎖は2月末である。それまでに平成22年度の収納・支出は終えておかなくてはならない。1カ月が28日というのはやはり短い。体内時計的には1カ月は30日か31日であって、28日限りということには「あれっ」と戸惑うこともある。まだ、最終的な確認は終えていないが、地区(自治会)の平成22年度会計は無難に決算できたのではないかと思っている。これから監査を受け、総会に諮らなければならない。地区(自治会)長としての残任期間は1カ月となった。まだまだやらなければならないことは多く残っており、残任期間中にできることはできる限り為したいと思っているが、「できなかった」として次期地区(自治会)長に引き継がなければならないことも多い。
 こともなく過ぎ去って欲しい・・・三寒四温の3月である。




TGC名古屋 (2011.02.21)
 夕方のTVニュースで「東京ガールズコレクション in 名古屋」が開かれたと紹介されていた。2月19日に名古屋ドームで、ファッションフェスタ「東京ガールズコレクション in 名古屋」が開かれたらしい。
 貧乏な田舎者である私は最先端のファッションとは無縁である。オートクチュールもプレタポルテもブランドもほとんど知らない。デザイナーズ・ブランドコレクションなるものもよく分からない。TV映像で紹介されるパリやミラノやニューヨークで開かれている新作発表会に登場する衣装を見ながら、誰がこんな服を着るのかと、不思議に思うことがある。有名なデザイナーのファッションショーと比べると、TVニュースで報じられる東京ガールズコレクションに登場するデザインは《庶民的》であると感じる。
 私の住む地域では毎年夏に「納涼夏まつり」を開いている。一昨年からその演目の一つとして 「ファッションショー」が行われている。地域の若い女性・高校生・子どもたちが企画・運営・出演してくれて人気を呼んでいる。が、平成22年度に若干反省すべき点が生じた。「東京ガールズコレクション in 名古屋」の映像を見ていると、ステージ出演者が舞台からアクセサリーなどを観客に放り投げている光景があった。それを真似たのだろう、夏まつりファッションショーの出演者が観客に小物を放りまく演出をした。地域の子どもたちが小物を求めて舞台にまで殺到し、ファッションショーの進行が妨げられることとなった。場合によってはケガをする危険もある。今後も納涼夏まつりでファッションショーが行われるのであれば、演出は「東京ガールズコレクション」を参考にしても良いと思うけれども、小物をまくことだけはやめた方がいいと思う。




昼間からの飲酒 (2011.02.20)
 左足踝を骨折してから5週間が過ぎた。まだ左足を使って歩くことは出来てはいない。一番辛いのは自分の足として車が使えないことである。妻が運転する車の助手席に乗って外出する・・・そうしなければ家の周囲からは離れられない。
 今日も1日外出できなかった。一日中家に閉じこもっていると気分がイライラする。気分転換がしたいと妻に「どこか喫茶店でも行かないか」と誘ったが、「行けない」と断られてしまった。
 一日中家に閉じこもっていると気分が鬱(ふさ)いで仕方がない。妻は私が昼間から飲酒することを激しく嫌悪するが、今日も気分が鬱ぐ・・・午後2時過ぎから焼酎の湯割りを飲みながらTVの「横浜国際女子マラソン」を見ている。




議員定数削減 (2011.02.20)
 下呂市議会では議員定数の適正数について議論しているという。現職議員の誰もが、次回選挙で現行議席が確保され、出来得れば無投票当選出来ることを願っているだろうと思う。が、そうはいかないご時世である。現行は21議席であるが、5議席減の16議席に削減するというのが趨勢らしい。
 私は、衆議院、参議院、岐阜県議会、下呂市議会のいずれもの議員さんたちの定数は半減してもいいんじゃないかと思っている。特に国会議員、本当にあんなに要るんだろうか?
 下呂市議会議員定数5議席減・・・「まぁっ、それでよろしいんではないでしょうか」。




聖バレンタインデー (2011.02.14)
 菅内閣の支持率は民主党・自民党支持率とともに留まり無く下がっているという。大相撲の協会と利害関係者は自己保身に躍起である。なぜそれほどのニュースバリューがあるのか分からないけれど浅草ロック座でストリップをしていた女性がフィリピンに逃亡したとのニュースが大々的に報じられている。そんなニュース番組を見る気もおこらなかった今日はバレンタインデーである。
 ウィキペディアフリー百科事典には「聖バレンタインズデー(St. Valentine's Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、これは主に西方教会の広がる地域における伝承である」と書かれている。何のこっちゃと、どうして男女の愛の誓いの日とされたのかよく分からないが、詳細を調べてみようとは思わない。
 夜、妻が「すごく雪が降っている」と言う。窓の外を見てみると5p以上の雪が積もっている。まだ雪は降りしきっているので、明日の朝にはまだ積もっているかもしれない。
 バレンタインデーの今日、私は1歩も外出しなかった。自治会の一般会計は単式簿記である。今日、その平成22年度収支の点検を始めた私は、台帳の残額と口座の残額に2,000円の違いがあることに気付いた。1円でも違ってはならない収支に2,000円の差異があるのである。その差異の理由を探しだすのに6時間を要した。午前10時から午後4時まで、台帳や通帳(口座)を眺め続けた。午後4時を過ぎてから、何とかその理由を見出せたと思う。こうした差異はよく生ずるが、定期的に早期に修正をしておかないと混迷を深くするのだと肝に銘じた。




骨折2題 (2011.02.12)
■差別用語
 身体・精神の〈障がい〉についての言葉の多くが「差別用語」として公用語から除外されてきている。〈障がい〉も以前は「障害」と表記されていたが、「害」の字が適当では無いということで、今日では〈障がい〉と表記されるようになっている。
 「差別用語」とは何か・・・差別を被っている人たちが不快を感じる、不利益を被る言葉が「差別用語」なのだろう。
 座ったままで進む。立たないで、ひざがしらや尻をつけたままで進む。膝行(しっこう)する・・・「いざる」(躄る・膝行る)という言葉も、差別用語なのかもしれない。ある意味(本当にそうであるのかどうかはわからないのだが)非障がい者である私たちは、被差別者の心情に配慮を欠く言動をすることが多々ある。が、今回は差別的表現ということでは無く、膝行(いざ)るという言葉を使わせて頂かなければならない。
 右足踝(くるぶし)を骨折してから私は膝行を活用してきた。私はインターネットを利用できるディスクトップパソコンを利用しているが、その設置場所は2階なのである。寝場所はトイレに行きやすい1階に移したが、パソコンの設置場所は移動できなかった。階段を2階に上がるとき必要であったのが膝行であった。私は階段を這って上がり、パソコンの前に座った。
 松葉杖を使い、社会福祉協議会から借りてきた車椅子を使い、階段の上り下りには膝行する私は、身体障がい者の辛い思いの一端を体験することができたように思う。
 ふと、「ダルマ娘」と呼ばれた中村久子さんのことが思い出されてインターネットで調べてみたが、引き合いに出すことは怖れ多くて憚(はばかれ)られた。
■下ネタ
 下ネタである。だが、無念ながら艶やかな話では無い。私は艶やかな下ネタには恵まれなかった。
 左足踝(くるぶし)を骨折してから、寝床をトイレのある1階に移したが厳寒に夜中にトイレに起きることはたいへんである。そこで男用の「溲瓶」(しゅびん=尿瓶)を買ってもらった。「しゅびん」と言えば昔は頑丈なガラス製のものであったが、妻が買ってきてくれた尿瓶はプラスティック製であった。
 尿瓶が有ってくれたお陰で、凍て付く廊下を通って凍て付くトイレに行く必要がなくなって助かった。尿瓶様々である。




鬼馬二さん (2011.02.11)
 定期購読している『サライ』2011年3月号に八名信夫氏が登場していた。文中「昭和58年には、悪役俳優12人で『悪役商会』を旗揚げ」と紹介されている。『悪役商会』・・・その中に丹古母鬼馬二(たんこぼ・きばじ)さんもいたのではないかと思う。プロフィールを調べてみると、1950年1月の生まれとあるので、1949年8月生まれの私と学年は同じである。
 鬼馬二さんとは1度だけ東西線飯田橋駅近くの居酒屋で一緒に飲んだことがある。今ではアルコール依存症の私ではあるが、当時は下戸であった。飯田橋と市ヶ谷との間にある学舎はロックアウトされていて、敷地内にはプレハブのサークル部室が造られていた。そのサークル部室に鬼馬二さんを誘ってくれたのは、劇団日本や赤テントなどと関わりを持っていたSさんであった。当時、鬼馬二さんは劇団日本にいたのではないかと思う。プレハブの屋根の上で鬼馬二さんの尺八演奏を聴いたと記憶している。
 鬼馬二さんと話していて、私はプロの役者とは恐ろしいものだと感じた。台詞の言い回し、視線、周囲の人(観客)を惹きつける雰囲気作り・・・当時の私が加わっていた学生サークルの演劇は、プロの役者と比べれば幼稚園・保育園の遊技のようなものであるような気がした。
 ところで、一時期はTVの時代劇で御活躍されていたようではあるが、鬼馬二さん、近年どうしているのだろうか。




早送りできない (2011.02.07)
 歩行するには松葉杖を使わなければならない、車の運転はできない・・・今の私の行動範囲はとても狭い。昨日、今日と、一歩も家から外に出なかった。朝早く起きる必要は無い。早く起きたところでしなければならないこと、できることは無い。食事をする以外には、パソコンでフリーセルカードゲームをしたりTVを見たりして1日が終わる。酒を飲み、睡眠導入剤を飲んで眠る。
 大相撲の八百長問題、愛知県知事・名古屋市長選挙での政党支援候補の敗北、エジプトの独裁政権崩壊、インテルの長友の活躍や日本ハムの祐ちゃんフィーバーなどが話題となっている。その総てが今の私にはどうでも良く苛立たしい。
 骨折を治すためにしていることはギブス固定だけである。薬剤は使っていない。ただただ安静にして時が経って自然治癒するのを待つしか無い。
 閉塞感に被われた時間・・・早く(骨折部分が治ってくれるのであろう)春になって欲しいが、時は早送りできない。




グリューヴァイン (2011.02.06)
 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には「グリューヴァイン(独: Gluhwein)は、ワインと香辛料などを温めて作るホット・カクテルの一種。一般的には赤ワインで作られるが、白ワイン由来のものも存在する。11月中旬から開かれる各地のクリスマス・マーケットでたのしむことが出来る」と書かれている。燗(かん)葡萄酒である。飲ん兵衛には香辛料など入れなくても結構美味しい。ワインというと日本では何かしら高尚なニュアンスがあって、蘊蓄(うんちく)を垂れられることが多いが、ワイン生産地の庶民は日頃高価なワインばかりを飲んでなどいないだろうなと思う。グリューヴァイン・・・たぶん紳士淑女が畏(かしこ)まって飲むワインではないだろうと思う。
 中東欧の冬はたぶん寒い。その寒い夜に燗葡萄酒で体の中から温まることは気持ちの良いことだろう。
 今度、安いワインを買ってきて、燗をして飲んでみたいと思っている。




K家 (2011.02.05)
 龍泉寺報第9号が配られてきた。「長年檀信徒総代長を務められてきたK氏が退任されることとなった」と書かれていた。
 我が家「さいり」(はぎわら文庫第11集『萩原の維新と梅村騒動』には「ほそり」と書かれているが、直系の母は「さいり」が正しいと言っていた)の血縁は、当時の当主(利左エ門さん=文化7年7月15日生)夫妻に子が無かったために江戸時代末期あるいは明治初期に養子として迎えられた利右衛門さん(天保8年正月27日生)と、住幸謹さんの叔母であるつや(つよ)さん(弘化元年2月5日生)夫婦から再構築(リセット)されることとなった。K氏の家は利右衛門さんの生まれ家である。古い戸籍に「明治五年以前同懸同郡川西村K家平右エ門の四男入籍」との記載がある。
 K家とは付き合いは無い。戦前に祖父の代に身上(しんしょう)が潰れた我が家は戦後も貧しく暮らしてきたが、身上が有った時代を知らない私は貧しい生活を不幸だと思ったことは無かった。兄も私も妹も、利右衛門さんつやさん夫婦から紡ぎ出された経緯に対して、「もし身上が潰れなかったら・・・」などという思いは持っていないと思う。今が最上であるかどうかは分からないが、そんなことにお構いなく、私たち兄弟妹は現実に対応して、まあまあ満足して生きているようだから・・・。




名のみでも春到来 (2011.02.04)
 シンメトリー(Symmetry)という言葉がある。『Obunsha's ハイトップ英和辞典』には「左右の対称;つり合い,調和」と和訳されている。神社の鳥居で素朴で左右対称の鳥居に「神明鳥居」(しんめいとりい)がある。シンメトリー・・・しんめいとりい・・・単なる偶然なのかもしれないけれど、このふたつの言葉がどこかで重なり合うような気がしてならない。
 今日は立春・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に『立春の早朝、(曹洞)禅寺では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある』と書かれている。厄除け効果があるらしい。真偽のほどは分からないが道元禅師が寛元5年(1247)の立春に記したとされる立春大吉の法語が由縁であるという。この「立春大吉」、縦書きではシンメトリーで、シンメトリーであることが厄除けに関わってくるらしい。。
 昭和40年に刊行された『岐阜県小坂町誌』の「年中行事」には、「節分」に「一般には行わない。かつて禅宗の家が1・2軒で豆撒きやヒイラギの小枝を軒に差す程度のものであった。近年になって長谷寺・宮村水無神社・萩原町久津八幡宮が節分厄除祭を行うようになり、これへ参拝する者が多くなった」と紹介されているが、「立春」については一言も書かれてはいない。立春とは二十四節気の一つであり、暦の上で春が始まるだけの日なのであろう。
 「立春?、それが何?」・・・インタビューに対する女芸人のふてくされた回答のように、私の2011年の立春は終わろうとしている。




節 分 (2011.02.03)
 節分・・・広辞苑を引いてみる。「@季節のうつりかわる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の称。せちぶん。A特に立春の前日の称。この日の夕暮、柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口に立て、鬼打豆と称して炒(い)大豆をまく習慣がある。→追儺(ついな)」。
 鰯の頭を戸口に立てる風習は関東方面のものでは無いだろうか。南飛騨ではそんなことは行われていなかった。柊、鰯、戸口、追儺、晴明紋、十二支・・・節分ということに連想する言葉はたくさんあるが、その1つに「星祭」がある。飛騨高山の国分寺でも立春前日に儀式が行われるが、それは「星祭」なのである。再び広辞苑で「星祭」を引いてみよう。「密教で、除災・求福のために当年星または本命星(ほんみょうせい)をまつること」。
 近年、節分には恵方巻と言われる太巻寿司が売られ、恵方の方角に向いてその恵方巻を丸囓りすると幸運が得られると喧伝されている。関西の風習のようではあるが、バレンタインチョコレートのような節分の恵方巻が、誰彼無く楽しんで幸福で有れれば風俗として良いのではないかと思う。




2月2日はもぐらの日 (2011.02.02)
 かつて、「2月2日はもぐらの日」というような詩作品を書いたことがあるような気がするのですが、それがどのようなものであったのか、いつごろ書いたのか今日のところは分かりません。むかしむかし、雑誌か新聞かで「2月2日はもぐらの日」ということに関する記事を読んで、「2月2日はもぐらの日」だと思いこんだのだと思います。私はかつて若い頃に『もぐらが地下から出てきた日』と題した物語を書いていたことがありました。私の物語で何とかまとまり、かつ活字になったのは、「蛞蝓の述懐」と「冬至の日の凍人」との2作品だけです。『もぐらが地下から出てきた日』は完成せず、表沙汰になることはありませんでした。
 「2月2日はもぐらの日」とは何なのか、ウェブ検索をしてみました。1つだけ、「ああ、こういうことだったのではないか」というサイト(紹介)が見つかりました。『能天気Express Hyper』(お天気,暦,競馬などに関するメモです。以前発行していたメルマガ「能天気Express」のブログ版みたいなものです)の記述です・・・。
 
●もぐらの日(2007/02/01(木))
 2月2日は、北米ではGroundhog Day。あまり正しくはなさそうですが、要するに「もぐらの日」。あまり正しくないというのは、Groundhogはリスの仲間らしいからです。
いい伝えによると、この日、Groundhogがのこのこと巣穴が出てくるそうです。そのとき、晴れていて自分の影を見ることができるとまだ6週間冬が続き、くもっていて自分の影が見えないと春はすぐそこなのだそうです。
 ちなみに、2月2日はもともとキリスト教の聖燭節(=キャンドルマス)です。聖燭節は、弱っていた太陽が復活しはじめ春が近づくことを祝うケルトの祭りからキリスト教に取り入れられた祝日だそうです。  2月2日は立春とほぼ2日違い。人間の考えることなんてあまり違わないようです。

 「もぐらの日」も、冬至と同じように「一陽来復」の日であるようです。
 明日は節分、明後日は立春・・・暦の上であっても春が来てくれるのはうれしいことです。




きさらぎ (2011.02.01)
 今日から2月。如月・・・「月のはじめに立春がある。陰暦24節気の一つで、暦の上ではこの日から春になるというのだが、実際には余寒が厳しく、冴え返る日が多い。2月の異名・如月(きさらぎ)とは、「衣をさらに着る」の意で、春というより極寒の感じが強い。世の闇はあくまでも暗く、暁は遠い」と『懐石サントリー』(淡交社)は言う。確かに確かに、飛騨人は2月に春など感じはしない。
 北陸など日本海沿岸地域では豪雪に襲われて難儀されているようである。南飛騨の小坂はと言えば、1月には毎日のように雪が降ったが、日毎の積雪量はそれほどでも無くて、幸いなことに(私のように足の骨を折った人間以外には)日々の生活にはそれほどの困難は生じていない。
 上さんが「高山のホームセンターに注文したおいた「もも」の餌を取りに行く」と言う。気分転換のため、私も同行することとした。帰宅したのは午後5時15分を過ぎてからであった。冬至の頃には午後4時30分を過ぎると辺りが暗くなり始めていたように思う。高山からの帰り道、午後5時近くなっても、辺りはまだ明るさを残していた。春は遠いが、日々確かに近づいている・・・夕刻の明るさにそんなことを感じた。




頼れるもの (2011.01.25)
 『からだにおいしい魚の便利帳』(高橋書店:藤原昌高著)を読んでいたら、「鯒(コチ)」の欄に「夫婦仲のいい魚」と題して「必ず夫婦いっしょにいる魚。釣りでもオスかメスが1匹釣れると必ずもう1匹釣れるという。相方が追いかけてくるのだ」と書いてあった。
 左足踝を骨折した翌朝である。上(かみ)さん(=妻)の機嫌が良くない。「夕べ私に何って言ったか覚えとる?」と私に聞く。何も覚えていない。孫を連れて帰省している長女が、「お父さんがお母さんに吐いた暴言を聞いて、私は(生活の場である名古屋近郊の町に)帰ろうかと思った」と言う。アルコール依存症の私は、焼酎白波1升パックであれウィスキー角瓶700mlであれ3〜4日で無くなるほど毎日酒を飲む日々を続けている。夕方に飲み始め、かなり酔っぱらって眠る。酒だけでは明け方重たい夢を見て起きることがあって苦しいことがあるので、昨年夏頃からは飲酒の後に「マイスリー」という睡眠導入剤を飲んで眠る日々である。酒を飲み始めてからの記憶は翌朝にはほとんど残っていないことが多い。上さんが言う、「お父さん(私)には酒乱のようなところがある。夕べは私(上さん)の対応が悪い、おまえには頼らないって言ったのよ。本当に頭にきて、ほかっておこうと思った」。そんなことを言ったのだろうか、私には何の記憶も無かった。
 中学の同級生の飲食店主人から電話があった。「俺も昨年脱臼・骨折をして動けなくなった。上さんに支えられて何とか動くことができた。上さんの存在の有り難さが判るだろう」。
 今、上さんの存在無くしては何もできない。コチのような夫婦仲とは言えないかもしれないが、今の私は上さんに助けてもらわなければ何もできないのである。




左足骨折 (2011.01.16)
 市道の除雪のために除雪作業車(重機)が出動する目安は「積雪量15p」である。今朝(1月16日)、今冬初めて我が家の前の市道の除雪作業車による除雪が行われた。15日夜から17日にかけて強い寒気が流れ込んで、日本列島に雪を降らせているようである。
 今冬の飛騨小坂は寒く雪が降る日が多いが、1日の降雪量はせいぜい5pくらいまでのことが多く、除雪作業車が出動することが無かったのだ。凍てつきは厳しい。簡易水道の浄水場の取水口などが凍って水道水供給能力が低下したこともあったようだ。
 1日中雪が降り続いた1月16日には大島諏訪神社の「どんど焼き」が行われた。私はその「どんど焼き」に行くことができなかった。整形外科医院で左足膝下をギブス固定してもらい、松葉杖を使って歩いていて、出かけることも作業をすることも簡単にはできなくなってしまったのである。14日朝、飼い犬と散歩に出かけた折、凍結路面で転倒し、左足踝(くるぶし)を骨折してしまったのだ。ギブス固定した左足は踏み込んではならないということで、車は運転できないし、松葉杖を使って片足歩行しなければならない。
 私の作業部屋・寝室は2階にあるが、階段の上り下りがたいへんだということで、1階奥の間(仏間)で寝起きすることにした。注連飾り外し(15日)、家の周囲の雪除け、飼い犬の朝の散歩、通院の車の運転などをすべて妻にやってもらわなければならなくなった。左足を使って歩けるようになるまでには4カ月ぐらいかかるらしい。すべてが不便であり、思い通りに行かないが、我慢するより他はない。



常識をひっくりかえす (2011.01.11)
 『サライ』2011年2月号は「利休を訪ねる」と題して茶の湯について特集している。「茶事、約4時間の流れを知る」というコーナーがあって、茶室に入る前の作法が紹介されている。「蹲踞(つくばい)で手と口を清める」・・・「茶室に入る前に、露地に据えられた蹲踞(手水鉢)を使う。まず柄杓(ひしゃく)で水をすくって左右の手を清める。さらに一杓すくって左手に水を受けて口をすすぎ、残りで柄杓の柄を清める」とある。「えっ」と思う。これ、神道の「手水(てみず)の作法」ではないか。鎌倉時代に禅宗を伝えた栄西や道元によって薬として日本に持ち込まれた抹茶を材料とする茶道なるものが、その成り立ち過程で、「手水の作法」をも取り込んでいったことに興味を覚える。
 『サライ』2011年2月号の中で、静岡文化芸術大学長の熊倉功夫という人が、「信長が登場した時代はよく「下克上」の時代といわれますね。下克上というと、位の低い者が上の人間を追い落とすことのように受け止められていますが、権力闘争だけを指すものではありません。むしろその本質は、文化や政治、すべてを含めて、それまでの常識をひっくりかえすことです」・・・非常に興味深いご意見であると思った。
 日本はいつ戦後から脱却したのか・・・「常識をひっくりかえす」、1960年代半ばから1970年代前半にかけて、日本人は大きく変わったのではないか。私たちが青春時代を過ごした時代こそが、大転換期だったのではないかと思うことがよく有る。



進藤さんの長男 (2011.01.08)
 東京生活時代の友人である進藤さんから今年戴いた年賀状に、「12チャンネル夜WBS 長男 出てます」と書かれていた。
 12チャンネルと言えば、「テレビ東京」である。「テレビ東京」系列の番組は小坂町時代の有線TVは「テレビ愛知」で視聴していた。が、下呂市になってCATVが整備されると、「テレビ愛知」は見ることができなくなり、「テレビ東京」系列の番組は「ぎふチャン(岐阜放送)」で見ることとなった。「ぎふチャン」と「テレビ愛知」とでは当然放送内容が違う。「ぎふチャン」となって見られなくなった「テレビ東京」系列の番組も多い。
 WBS(ワールドビジネスサテライト)を「ぎふチャン」で放映しているのかどうかは判らなかった。正直、これまで見たことは無かった。進藤さんからの賀状が届いてから以降、新聞の「ぎふチャン」のTV番組欄を見ていたが、「WBS」という表記は出てこなかった。「残念ながらぎふチャンではWBSを放映していないのだろう」と思っていた。
 七草粥を食べながら朝刊を読んでいると、「ぎふチャン」のTV番組欄に「WBS」という表記があることに気付いた。1月7日の夜遅くの経済報道(ニュース)番組であるらしい。録画予約をした。
 そのかなり硬派な経済論説・ニュース番組である「WBS」を今日(1月8日)に見た。フィールドキャスターとして「進藤隆富」という人が登場した。地下化石燃料やメタンハイドレート(Methane hydrate)について取材していた。メタンハイドレートという言葉は、かつてそれが地球熱球化の一原因となったというNHK総合の番組で聞いて印象深い物質の名称であったし、かつての同僚でメタンハイドレートを研究し続けていて英国の科学誌にその論文が掲載された人もいて、忘れがたい名称なのである。
 さて、かなり昔のことであるが、友人の進藤さんのご家族が1度飛騨小坂に来訪されて我が家に泊まられたことがある。そのとき、周囲が山ばかりであることに驚いていた幼子がいた。WBSで御活躍中の進藤隆富さんはその子だったのだろうか。



スノーマン (2011.01.05)
 2011年1月4日の朝日新聞の「はてなTV」という欄に「Q 英語の歌詞は?」という記事が載った。東京都八王子の72歳の男性が「英語の歌詞が流れるNTTドコモのCMソングが気になっています。「〜スノーマン」と聞こえますが、何といっているのでしょうか」・・・「えっ、〜スノーマン?」・・・木村カエラさんが歌うNTTドコモのCMソングを聞きながら、何て言っているのかと気にはなっていたのだが、英語が大の苦手の私には「〜ソーメン」としか聞こえていなかった。「はてなTV」の答は次のとおりであった。
 「A 歌手の木村カエラさんが早口で歌っているNTTドコモのCMソングですね。作曲者の渡邊忍さんと木村さんが作詞し、曲のタイトルにもなっているこのフレーズは「A winter fairy is melting snowman」。意訳すると、おちゃめな冬の妖精が雪だるまを溶かして回っている、というような意味でしょうか。公式の日本語訳はないそうです」。
 英会話を出来ることが必要だ、英会話が出来るようになりたいと思ったことは多々ある。が、なまくらな私はついに英語を読むことも書くことも話すことも文法を理解することも出来なかった。これからもたぶん無いだろう。私という人間は、その程度の人間だったのだと思うことがある。
 「えっ、〜スノーマン?」・・・私には「〜ソーメン」としか聞こえないのである。



年取り (2011.01.03)
 この地球上で飢えている幾万もの子どもたちや都会の一角で年を越せないと嘆いているホームレス諸氏には申し訳無いが、我が家の人間は飢えることなく年越しをすることができた。飢えるどころか、新年の我が家の冷蔵庫の冷凍庫は、冷凍宅配便で送って戴いていたタラバ蟹、鹿児島の黒豚、横浜中華街の聘珍楼の点心・・・ご馳走でぎゅうぎゅう詰めになっている。
 我が家では毎年「年取り」をしてきた。大晦日の夕べ、家族揃って飲食をする。食べるのは「御節」である。飛騨では大晦日の夕食に御節を食べて「年取り」をするのである。我が家の「年取り」に塩鰤(ブリ)は欠かせない。出世魚である鰤の切り身焼きを食べる。私の実母も妻も、「年取り」のご馳走は当然出来合いのものは使うとしても、パッケージされた「御節」を購入してそれをそのまま食卓に出して事足りさせてきたことは無かった。
 今年(昨年末)、名古屋近郊に住む長女の家族は、「熱田神宮に初詣に行くので」ということで飛騨へは来ないこととなった。老夫婦が卓にたくさんの「御節」を並べて、ぼそぼそと食べて「年取り」をすることにどれほどの価値があろう。「年取り」は家長制度、大家族が有ってこそ必要な儀式なのだ。
 年末に長女家族が帰って来ないと聞いたとき、私は妻に「塩鰤は食べたいけれど、冷凍庫の中が美味食材でギュウギュウ詰めになっている状態では、御節なんて作ってもらわなくても良いよ」と言った。「もう少し早くそう言ってもらえれば買わなかったが、もう御節の材料を買い揃えてしまった」と妻が答えた。
 私は食に恵まれたらしい。この地球上で飢えている幾万もの子どもたちや都会の一角で年を越せないと嘆いているホームレス諸氏には申し訳無いが、私は飢えることなく新年を迎えた。

元日の巌立 小坂産注連縄 ナンテン




元旦祭 (2011.01.01)
 大島諏訪神社の「元旦祭」に詣でた。大晦日の午後11時55分に神殿で神楽の演奏が始まった。元日の午前零時に始まった「元旦祭」では、まず神職が氏神様に新年が良き年であり氏子が住まうこの地が平穏無事であり実り多いこと願う旨の祝詞を申し述べ氏子総代が豊かな様々な食を献じた。その後各代表が神木である榊を供え、五穀豊穣と平安無事を祈願した。
 境内では大島区の地域活性化ボランティア団体である「小坂BIクラブ」の会員の皆さんが、初詣の皆さんに甘酒と餅(磯辺焼)を振る舞っていた。
 甘酒と焼いた餅を頂いて、午前1時頃に白く雪降る道を歩いて帰宅した。


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