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両面宿儺(りょうめんすくな)伝説

飛騨街道 金山宿 筋骨めぐり “鎮守山(ちんじゅさん)


 国道41号 “十王坂”交差点から東へ飛騨街道に入るとすぐに、登り口があります

ここには日本書紀に登場する 「両面宿儺(スクナ)」 が立ち寄った場所です。
仁徳天皇の時代(西暦400年頃)、飛騨を治める
スクナという人物を征伐するために、朝廷軍が攻め入る飛騨の入口で、ここから高山市丹生川まで、その伝説は続きます。

  では、両面宿儺とは…飛騨の豪族 !? それとも飛騨の英雄 !?
よく似た存在に東北の阿弖流為(アテルイ)という人物がいます

2003年(平成15年)開催 高山市のシンポジウム (高山市教育委員会)の資料から
「飛騨のスクナと東北のアテルイ」 〜二人がもたらす新時代の光〜

スクナとアテルイ
スクナは1,600年位前に飛騨にいたといわれる人です。アテルイは1,200年位前に岩手県の胆沢(いさわ)地方に実在した人です。どちらも中央集権と戦って敗れた人で、記録では二人とも「まつろわぬもの=逆賊」として扱われています。

飛騨ではスクナは、神仏として崇められていました。一方、東北においてアテルイは、悪人・悪路王(あくろおう)として敵視され、アテルイを討伐した 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ) が英雄として崇められてきました。とろこが、スクナを討伐した 難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま) の飛騨における存在感はどうかといえば、田村麻呂に比べればかなり薄いようです。

飛騨のスクナは、歴史の端々に登場し、宗教的にも大きな影響力をもっていました。スクナが何時ごろから信仰の対象となったかは定かではありませんが、18世紀中ごろに成立した「飛州志」ではスクナを神に、「飛騨国中案内」ではスクナを仏として扱っていることを考えると、この頃には既にスクナ信仰が存在していたといえるでしょう。

東北のアテルイはどうかといえば、悪者として徹底的に糾弾され、田村麻呂が東北の歴史・宗教に大きな影響を及ぼしていました。田村麻呂が勧請したとする神社や、田村麻呂が奥州開拓を行ったという伝説は枚挙にいとまがありません。まさに田村麻呂こそが東北の英雄でした。ところが戦後、自由な歴史研究が行われるようになると、田村麻呂とアテルイの立場は逆転します。それは、アテルイは東北の民と土地を守ろうと必死に戦った英雄であり、田村麻呂は侵略者であったという図式です。

ここではじめてスクナとアテルイは崇拝の対象として同じ立場になったことになります。しかしながら、それぞれの地域での両者の扱いの歴史を比較してみると、二人の間には何か根本的な相違が存在しているように思われます。そのあたりのことは、この企画展やシンポジウムを通じて明らかになるかもしれませんが、ただいえることは、スクナは今も変わらず慕われて生き続けているということであり、アテルイは永い眠りから甦り、生命を得て地域の文化に大きな影響を与え始めたということです。

結果、「まつろわぬもの」であったスクナとアテルイは、それぞれの地域の人々にとって、かけがえのない先人としてこれからも長く生き続けるでしょうし、飛騨、東北それぞれの地域に生きる人々が、自分が何者であるかを確認する上で、二人の存在は決して忘れてはならないものでしょう。

スクナに関わる記事  日本書紀巻第十一 仁徳天皇 (下のQ&Aに原文と訳あり)

スクナと武振熊の足跡
≪スクナの足跡≫
飛騨から美濃にかけて、スクナを仏の化身とするスクナ信仰が広がっています。以下に要約して例示します。「宿儺は、丹生川村日面(ひおも)の出羽ヶ平の洞窟より出現し、仏法・法王を唱えた。位山では、武振熊に王位即位の大事を伝授し(千光寺の縁起、善久寺の縁起など)金山町(鎮守山)では、大悲の陀羅尼(だらに)を論じ、国家安穏五穀豊穣の祭祀を務め、その後、武儀町の高沢山に飛行したという(金山鎮守山観音堂由緒)。美濃に入ると、宿儺は高沢山で龍を退治し美濃加茂市の加茂野で「大池」「神池」「チシャバ池」の3つの池をつくり(日龍峯寺の縁起)、関市では聖観世音を彫刻し池をつくったという(暁堂寺の縁起)。」
ちなみに、これらスクナ信仰に関わる縁起を持つ寺は、主に真言宗・天台宗などの密教系寺院であり、現在は別の宗派であっても過去には密教系寺院でした。


≪武振熊(たけふるくま)の足跡≫
明治6年(1873)尊王家の国学者・富田禮彦は、スクナを朝敵と捉え、『斐太後風土紀』の中で次のように記しています。「宿儺が飛騨地方を荒らしまわり、住民たちを苦しめていたため、仁徳天皇は、難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)を征伐に遣わした。戦闘は美濃・高沢山で始まり、後退する宿儺を武振熊が追撃、官道の所々に応神天皇の斎場を設け、武運長久を祈願し、これによって宿儺を討ち果たすことができた。後に、里人たちは、その斎場に八幡社を建て、応神天皇を祀った。」ちなみにスクナ討伐に由来する神社は
下原八幡(金山町)、乗政八幡(下呂町)、森八幡(下呂町)、久津八幡(萩原町)、位山八幡(萩原町)、若宮八幡(久々野町)、水無神社(宮村)、若宮八幡(高山市)、桜山八幡(高山市)、桐山八幡(丹生川村)です。
富田は、水無神社もかつては八幡と称したことがあり、この社は、神武天皇と応神天皇を合祀したスクナ討伐祈願の斎場であるとしています。
 スクナにまつわる
主な伝説
≪両面宿儺遺蹟保存会≫両面宿儺出現記
仁徳天皇癸、酉六月朔日、日面村出羽ヶ平山上大鳴動して、数千丈の岸壁一度に崩れ落ち岩窟となる。その窟中より身の丈一丈八寸、壱頭両面四手四脚、身には甲冑を着し兵杖を帯び、二手にて斧を持ち一方の手にて印を結び宿儺という仮相の者忽然と出現。村人は男女共々山畑に仕事中、諸人これを見て大いに恐縮し遠くに逃げ散らんとする時宿儺は大音響にて曰く 「汝等、全く恐怖すること勿れ 我は仏法守護王一大事の砌、依って今この世に出現せり 現世に奉仕する物なり。」と。

≪丹生川村史≫
仁徳天皇の時代、丹生川村日面村出羽ヶ平の山が大きな音を立てて揺れ動き、岸壁が崩れ落ちて岩窟が出来た。その中から身長三メートル以上、頭がひとつで顔が前後にあり、手足が四本で甲冑を着て腰に兵丈をさし、片手に斧、片手で印を結んだ宿儺という異形のものが出現した。山畑で仕事をしていた村人たちは、恐れおののいて逃げようとすると、宿儺はこう言った。「村人よ、恐れることはない。私は、仏法や王法を守るためにこの地にやってきたものであり、この世に奉仕をするものである。」

この異形の人物の出現のことは都にも伝わり、仁徳天皇はこれを退治するために軍を送ったが、険しい山岳に阻まれ都へ引き上げると、天皇は、難波根子武振熊を大将とする軍を派遣し、武振熊は美濃・高沢に陣を張った。宿儺は武振熊に使いを出して、「私は仏法の定めによって大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)に天皇位の王法を伝授するために出現したのである」 と伝え、武振熊を位山に案内した。そこで武振熊に大鷦鷯天皇への王法を伝授し、その印として位山の「イチイの木」で作った笏を献上した。

≪斐太後風土紀≫ 
宿儺は仁徳天皇の御仁恩を受けていたにもかかわらず、飛騨地方を荒らしまわり住民たちを苦しめていた。国造からの報告を受けた朝廷は、武振熊命を宿儺討伐に派遣した。宿儺は美濃・高沢に要塞を構え朝廷軍と戦ったが、敗れて飛騨に逃げ帰った。武振熊はそれを追撃し、所々で応神天皇の斎場を設け武運を祈った。そしてとうとう出羽ヶ平に宿儺を追い詰め、これを討ち果たした。後に中津原・森・久津・桜山・桐山などの里人たちは、宿儺調伏の斎場だったと思われるところに八幡神社を建て、応神天皇を祀った。



アテルイに関わる記事 続日本紀巻第四十 桓武天皇

アテルイと田村麻呂
の足跡



NHK BS 大型時代劇
2013/ 1/11〜全4回
毎週金曜日PM8:00〜
「阿弖流為(アテルイ)」の名は、「続日本紀」、「類聚(るいじゅう)国史」、「日本紀略」などの文献にでてきます。しかしアテルイが、いつ、どこで生れたか不明ですが、延暦21年(802)、岩手県胆沢地方の首長として活躍していたと語りつがれています。

当時、京の都では「東の方に日高見とよばれる豊かな国がある」といわれていました。延暦8年(789)、紀古佐美(きのこさみ)が朝廷軍を引き連れて蝦夷(エミシともいう)を征服しようとしましたが、アテルイが率いる蝦夷軍に大敗してしまいました。その後、桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、再び蝦夷を征服しようとしました。これに激しく抵抗してこの地を守ろうと戦ったのがアテルイと盟友の母礼(モレ)でした。アテルイは少ない手勢で朝廷軍を攻め立て勝利を挙げましたが、何度も攻めてくる朝廷軍により、蝦夷軍の受ける被害がだんだんと増えてきました。

アテルイは、このまま戦いを続けると、人々を苦しめることになると、朝廷軍に降伏することにしました。アテルイは田村麻呂に従って京に行きましたが、京の公卿たちは、生かしておけばまた反抗するので、処刑するようにせまり、延暦21年(8028月、田村麻呂の助命願いもむなしく、河内国椙山(かわちのくにすぎやま)で母礼とともに斬首されました。アテルイ、50歳前後であったろうと想像されます。
≪水沢市社会課副読本より≫
アテルイにまつわる
主な伝説
≪古代アテルイの里≫
その昔、胆沢(いさわ)の地に奥州エミシの大将・
悪路王(あくろおう/アテルイの史実を歪曲させて創りあげられた人物)、赤頭というものがいた。田村将軍が悪路王、赤頭を退治するために胆沢に向かう途中、悪路王は、その通力により空をにわかに掻き轟かせ、大風を起こし古木を折り、砂石を飛ばした。将軍の兵は肝をつぶして、進むことも退くこともできなかった。そこで、将軍が深く熊野に祈願すると、雲は切れ、鶴は舞い降り、風は止んだ。兵は勢いづき悪路王、赤頭を退治することが出来たので、将軍はこの地に熊野神を勧請し鶴ヶ峰と呼んだ。

悪路王(あくろおう)…平泉
達谷窟(たっこくのいわや)や金ヶ崎西根鶴ヶ峰に赤頭とともに住み、娘をさらい、良民を苦しめたとか、王位を狙い京に上ろうとしたとか伝えられるが、坂上田村麻呂と戦う奥州蝦夷(エミシ)の大将として有名。政府軍との戦いで大風をおこし、砂を巻き上げ、石を飛ばし木をなぎ倒す力を見せつけたという。

≪アテルイの里≫ 大嶽丸(おおだけまる) 

悪路王の弟で
人首丸の父。神出鬼没の蝦夷(エミシ)の大将の一人で、霧山嶽(岩手山)山頂の鬼ヶ城にタガマル(高丸)、アガマル(赤丸)、ゴロウマル(五郎丸)等の一党を引き連れて住んでいた。

人首丸(ひとかべまる…蝦夷(エミシ)の大将大嶽丸の一子。人首村大森山の岩穴に住む。延暦21年(802)より田村麻呂の娘婿田村阿波守兼光と戦い続け、大同2年(807)に敗れた。兼光が亡骸を見ると花顔柳眉の15、6歳の少年であったが、心は猛る勇敢なる鬼であった。人首地名はこれに由来する。

≪岩手民話・伝説辞典≫ 大嶽丸(おおだけまる)
朝廷は蝦夷の地をおかしたので、岩屋にいた大嶽丸(大岳丸)は各地の首領に呼びかけ対抗することになった。蝦夷たちは三千名の兵の勢いで富士山麓付近まで下って田村麻呂軍と戦った。次第に押され、ついに戦いに敗れて大嶽丸は宮古に逃れて、臼木山に隠れて住んでいたのが見つかり、娘を小脇に抱えて向かいの月山へ飛んでいき、鬼潟という浜の岩穴に隠れた。何日か経って外が騒がしいので見たら、向かいの山で男たちが着物を着て鉦、太鼓で踊っていた。娘に見せようと高い岩に登った。これを待っていた田村麻呂は強弓をもって射った。

≪アテルイの里≫ 八幡神社 

胆沢町小山の八幡神社は、延暦二十年、坂上田村麻呂が悪路王退治の時、胆沢郡徳岡郷の地に、山城国・石清水八幡宮を鎮祭したという。


悪路王(あくろおう)はそのままアテルイとはいえません。

悪路王は、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂が、東北地方を征圧する時に退治した「悪人」として伝えられている伝説上の人物です。この伝説は、田村麻呂が蝦夷(エミシ)征伐の時、朝廷に抵抗した蝦夷の長アテルイの史実を原型としています。その史実とは、田村麻呂を将軍とする朝廷軍の侵略に対し、アテルイは蝦夷の長として戦い、殺されたというものです。

結果的に、田村麻呂は悪人を退治し、東北開拓を行った「英雄」とされ、アテルイは「悪路王」という盗賊にまで貶められ、その存在は歪められてしまったのです。


スクナ伝説 Q&A
Q.スクナってどんな人? A.体はひとつだけど、顔が反対向きに2つ、手が4本あったんだって。左右に剣を差して、4本の手で弓矢を使ったらしい。力も強くてすばやかったんだよ。
 
<原文>
「六十五年に、飛騨国に一人有り。宿儺と曰う。其れ為人、體をにして両の面あり。両各相背けり、頂合ひて項なし。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以って、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ。」(
『日本書紀』上、日本古典文学大系 67)
<訳>
65年に(仁徳天皇の)飛騨の国に宿儺というものがいた。体がひとつで頭が2つ反対向きにあり、膝はあるがその裏の部分でつながっていた。力が強く、すばやくて、左右に剣を佩き、4本の手で弓矢を使った。ヤマト政権の命令に随わず、人民を苦しめたために、和珥臣の祖である難波根子武振熊を派遣して殺させた。

宿儺の身体的特徴は医学的には問題がなく、一卵性双生児の背面癒着の一つであると考えられます。ただし、中国やヨーロッパの文献に出てくる異民族の中に手が3本あるものなどが見えることから、異民族を異形の者として扱う考えが世界中にあったようです。当時のヤマト政権の飛騨の捉え方の一端が伺えます。


Q.スクナって何した人?  A.ヤマト政権にとっては住んでいる一般の人を苦しめる悪者だったんだ。だけど、飛騨や美濃に残る伝説では、お寺を作ったり竜を退治したりした英雄なんだよ。
 
『日本書紀』の記述によれば、宿儺は住民から略奪を行うことを楽しんでやっていたことになります。しかし、『日本書紀』という本は、8世紀の初めの頃、奈良にあった朝廷によって作られたもので、編纂者の視点から見たものとなっています。そのため宿儺の記述をそのまま捉えることは難しいのですが、何らかの歴史的事実を反映しているであろう事は、多くの研究者が指摘しています。おそらく飛騨がヤマト政権とのつながりを強く持ち始めるのが宿儺の頃ではないかと考えられています。

伝説では宿儺は千光寺や善久寺を造ったことになっており、また現在の武儀町(関市武儀)の日龍峯寺の縁起では宿儺は麓の里人を苦しめる竜を退治したことになっています。これらの伝説の多くが江戸時代の初めに作られたものだと考えられています。

Q.スクナっていつごろの人? A.スクナは『日本書紀』という本の中で仁徳天皇が世の中を治めていた時の話として出てきます。仁徳天皇がいたのは 5世紀の前半、今から1,600年ほど前になるんだよ。
 
宿儺は『日本書紀』の仁徳65年の事として記述されています。仁徳天皇のいた時期については、仁徳天皇の墓とされる大阪府堺市の大仙陵古墳の年代から、5世紀の前半であると考えられています。

大仙陵古墳は日本で最大の前方後円墳で全長が486m。周壕も含めるとさらに大きくなります。古墳の一部が明治時代に発掘されており、その時に金メッキを施した甲冑などが出土しています。また同じ百舌鳥古墳群の大塚山古墳からは100以上もの鉄製の剣や刀、1,500程の鉄鏃、短甲 8以上が出土しています。百舌鳥古墳群の勢力が多量の武器武具を所有し、圧倒的な権勢を持っていたことが伺われます。

Q.スクナってどんな意味が
あるの?
A.みんな節分の豆まきは知ってるよね。この行事はもともと追儺(ついな)っていう悪いものを追い払うための宮中行事だったんだ。スクナ(宿儺)と追儺は同じ字を使っているのが分かるよね。当時の政治の中心にいた人にとってみれば、言うことを聞かない飛騨の人が鬼みたいに見えたのかな。
 
宿儺の語源についてはいくつかの説があります。
@姓の一つである宿禰からきたとするもの、
A出雲神話のスクナビコナからきたとするもの、
B 節分のもととなった追儺の行事からきたとするもの などです。

@については、天武天皇が有力氏族に与えた「八色の姓」の3番目の宿禰からきているとする説ですが、大和朝廷が蛮族と捉えていた国と、称号とでも言うべき姓を類推するものとして扱ったとは考えにくいと思われます。Aについては、飛騨では気多若宮神社など北陸地方からの影響が強く、また考古学の成果からも日本海側からの文化の影響が非常に大きい事から、出雲神話のスクナビコナに結びつけて考えるものです。Bについて「儺」の字はおにやらいの意味を持ち、追儺という行事は現在の節分のもとになっています。 8世紀の初めには宮中で行われていました。日本書紀の成立が720年と言われていますので、編纂者が飛騨の征討に追儺の行事をだぶらせて書いたと考えるものです。

Q.難波根子武振熊って
どんな人?
A.ヤマト政権の命令を受けてスクナを退治しにやってきたんだよ。今の奈良市あたりに本拠地を持っていた豪族の先祖にあたる人で、非常に勇敢だったらしいよ。
 
『日本書紀』の中では「和珥臣の祖 難波根子武振熊」(以下和珥をワニと記す)として宿儺を討伐した人物として登場し、その他にも忍熊王の討伐の記事にも登場してきます。『日本書紀』の中ではその活躍を武内宿禰に譲っていますが、『古事記』の中では武振熊が主要な役割を果たしたことになっています。この両者の違いは『日本書紀』の編纂に係わった蘇我氏が武内宿禰を祖としていたため、自分に都合のいいように改作を行ったものであると考えられています。

また『日本書紀』の編纂にあたっては、いくつかの有力豪族に先祖書きを記した墓記を提出させ、その一部を引用していたことが知られています。その中に、ワニ氏の飛騨征討記事が含まれていた可能性があります。ワニ氏については平城京の東南部を本拠地として現在の奈良市付近に勢力を持っていた豪族で、春日朝臣やさらに後には遣唐使で有名な小野妹子や、万葉歌人の柿本人麻呂もワニ氏の子孫であるとされています。

Q.スクナのころはどんなもの
を食べていたの?
A.お米を食べていたんだよ。米などを蒸して「おこわ」を作る道具が見つかっているよ。
 
飛騨の米作りは約2,300年前、縄文時代の末には始まっていた可能性があります。米は弥生時代から古墳時代の初めでは、甕(かめ)で煮て食べていたと考えられていますが、 5世紀後半〜6世紀にカマドが導入されてからは、甑(こしき)で蒸して「おこわ」にして食べたりもしたようです。高山市の赤保木遺跡の6世紀の住居跡からはカマドと甑(蒸す道具)と甕(煮炊きする道具)がセットで出土しています。国府町の半田垣内遺跡では古墳時代の水田跡や鉄製の鎌も見つかっています。

また塩などの必要な食材は遠くから取り寄せてまで手に入れていたようです。

古墳時代の食器・調理道具には食べ物を盛る高坏(たかつき)や碗、煮炊きする甕、米などを蒸す甑、食べ物を貯蔵する壺などがありました。銘々に料理をお碗などに取って食事をしていた様子が目に浮かびます。


Q.どうしてヤマト政権は飛騨
に攻めてきたの?
A.スクナの頃から、200年以上後の事になるんだけど、飛騨の匠が都を造りに行ってたんだ。飛騨の匠はスクナの頃も腕がよかったはずだから、ヤマト政権にねらわれたのかもしれないね。他にも、飛騨には馬がたくさんいたからそれを欲しがったとか、神岡鉱山の金属のためだったとか言われているんだよ。
 
西暦720年に定められた大宝・養老令賦役令の中に、飛騨からは税の代わりに匠を出すようにとする条文があります。律令は一般的な法律で一つの国を取り上げて条文を設けることはないので、斐陀国条は非常に例外的です。それだけ飛騨の匠の技術が朝廷にも認められ、都づくりに必要とされていたのでしょう。また、この法令も一朝一夕に出来たわけではなく、それ以前から飛騨の匠の存在は中央の官人に知られるところだったと考えられています。686年に新羅の僧行真を飛騨の伽藍に流すという記事がありますが、当時すでに広く知られた寺院が飛騨にあったことが分かります。行真の流された寺がどこであったかは、まだ謎ですが、古川町の寿楽寺廃寺や、高山市の三仏寺廃寺がその候補として挙がっています。

馬具が古墳から多く出土していることは飛騨に多く馬がいたことを示しています。また、上記の行真の息子隆観は神馬を朝廷に献上して罪を許され、都に戻っていますし、飛騨の「騨」の字は(連銭葦毛の馬を指す)その事にちなんでつけられたとも言われています。

近年の研究の結果、特に前期古墳に多く副葬される鏡に上岡鉱山の鉛が使われている可能性が高まってきました。かつては鉛の成分から中国製と言われていたものも、飛騨の鉛を使っている可能性も出てきています。


Q.飛騨はヤマト政権に
征服されたの?
A.征服されたかどうかは、きちんとした本が残っていないので実はよく分からないんだ。でも飛騨では 5世紀(今から1,500年ほど前)頃には古墳が造られ始めるので、ヤマト政権の影響を受けていることは確かだよ。また、6世紀の初めから飛騨とヤマト政権とのつながりがあるって言ってる人もいるんだ。
 
現在の考古学の成果によると、飛騨でもっとも古い古墳は国府町にあった亀塚古墳と言われています。亀塚古墳からは多くの剣や刀が出土したことが知られていますが、仁徳天皇陵と言われている大仙陵古墳の近くの大塚山古墳からも大量の武器や武具が出土しており、同じ考え方が根底にあったことが伺えます。また赤保木 5号古墳や冬頭王塚古墳のように石を組んだ石室内に遺体を収める方法も、他の地域と共通するものです。お墓が重要な意味を持っており、共通の墓制をとることに重点が置かれたのでしょう。

文献によれば、大王の私有民である部民が 6世紀に入るとみられることから、少なくとも 6世紀初頭には飛騨地方がヤマト政権とのつながりを持っていたことは確かです。ただし征服されたかどうかは、文献資料がないためにあまりよく分かっていないのが実情です。



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