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2009.10.31 更新
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この節の標題を「 三木氏の家臣団 」としたが、「 三木氏配下の益田(ました)衆 」を取り上げる。「益田衆」とは飛騨三木氏の本拠地・益田郡の武士団のことで、三木氏族、三木氏直属の家臣団、三木氏配下の土豪衆からなる。さしあたり益田衆のうち萩原町にゆかりのある武将たちを紹介しよう。 |
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<益田衆と三木党> 北飛の豪族・江馬氏を倒して飛騨を統一した三木自綱(みつき・よりつな)の軍団は益田衆・八賀衆・大野衆の三軍団で構成されていたという。谷口研語氏は著書『飛騨三木一族』の中で、益田(ました)衆とは本城桜洞城管下の益田郡の土豪衆、八賀衆とは三仏寺城管下の八賀郷の土豪衆、大野衆とは三枝(さえぐさ)城管下の土豪衆である、としている。一方、『萩原町史』は次のように書いている。 三木氏六代目の自綱が飛騨国の統一をほぼ成し遂げた頃になると、三木氏の従来の家臣団のほかに、「益田衆」と呼ばれる萩原町にゆかりのある家臣団として、舟坂・桂川・熊崎・内記・細江などの新しい顔ぶれが登場する。 舟坂氏・桂川氏・熊崎氏・内記氏・細江氏らは在地の土豪ではなく、三木氏と同じ近江の出身者を中心とする三木氏子飼いの家臣たちである。つまり『萩原町史』でいう「益田衆」は三木氏子飼いの家臣団をさし、井戸氏(萩原町宮田)や今井氏(萩原町奥田洞)などの土豪衆は含まないように受けとれる。この狭義の「益田衆」は『飛州志』記載の「三木党」に名を連ねる家臣団とほぼ重なる。
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飛騨は北部の吉城郡(荒城郡)、中部の大野郡、南部の益田郡の3郡からなる。南部の益田郡が三木氏の本拠地で、北部の吉城郡は江馬氏の勢力圏であった。
大野郡の中心部(高山盆地)の土豪衆を屈服させた三木氏は松倉城を築いて本城とし、三仏寺城と三枝(さえぐさ)城(注)を北飛攻略のための前線拠点とした。八賀郷も大野郡に含まれるが、三仏寺城下の八賀郷の土豪衆で一軍団を形成していたようだ。(注)高山市の三枝は、現在は「みえだ」と読むが、古くは「さいぐさ>さえぐさ」と読んだ〔和名抄「飛騨国大野郡三枝(佐以久佐)」〕。 |
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益田衆の中でも「三木党」と呼ばれる、三木氏と同じ近江の出身者を中心とする桂川・熊崎・小林・内記・船坂・細江ら子飼いの家臣団の結束は固く、戦場で最も勇猛に闘った。この節では、益田衆のうち、萩原町ゆかりの土豪衆と三木氏直属の家臣団を取り上げた。(2009.9.11.記/2009.9.29.改) |
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(1)井戸
(1)井戸いど氏(宮田) 全国の井戸姓・約3000戸の約3割が岐阜県に集中している。岐阜県の分布の中心は加茂郡七宗町で100戸以上の井戸姓がある。分布密度はおそらく日本一であろう。
姓氏家系辞書によれば、井戸の地名は大和・摂津・丹波・讃岐・石見・甲斐・武蔵など各地にあり、その地名を負う井戸氏も各地にいるという。下呂市萩原町宮田にも井戸の地名があり、戦国時代に井戸氏が井戸城を構え、勢力を張っていた。 |
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井戸城址 往古井戸周防守清満居之。来由未詳。 (『飛州志』) この宮田の井戸氏は、厳密には三木氏の家臣ではなく、三木氏の幕下に入った在地の土豪(国人衆)である。『萩原町史』によれば、永正年間(1504-1520)、宮田の小豪族・井戸周防守藤原清之や奥田洞の小豪族・今井対馬守貞信は、新勢力の三木直頼に攻められて、その軍門に下ったという。宮田地区の旧家・井戸家の墓所の墓碑・墓石・墓誌には次のように書かれている。 <井戸清之墓碑(右写真)> 永禄十一戌辰(1568)年弐月四日 井戸久馬藤原清之(注) 大圓院智清大居士 (注)『萩原町史』は「清久」としているが、墓碑は「清之」 <井戸家墓石> 先祖 井戸城主 井戸周防守清満 寛正三年(1462)没 <井戸家墓誌>
(引用に際し、片仮名を平仮名に直し、句読点を補った。) 井戸城址 飛州誌(ママ)に往古井戸周防守清満居之。来由、永正年中、三木右兵衛尉直頼、飛州益田郡萩原に桜洞城を築き、井戸周防守・宮田、今井対馬守・奥田洞を降すとあり。現在は城址として特に名残を止めず。室町時代末期には土地の豪族井戸氏の居城で、後、三木氏に仕へ、その滅亡後は帰農したるものの如く、今尚、井戸姓を名乗るもの数戸あり。 井戸惣一調べ |
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三木氏2世・久頼(1471年没)は寛正年中(1460-1465)に益田郡を伐り取ったとされるが、それは益田郡の一部であり、その後いったん衰退する。三木氏が益田郡全域を掌握するのは4代・直頼(1554年没)であり、宮田の井戸氏は清久(清之?)の代に直頼の軍門に下るまで、独立性を維持していたと思われる。 なお、現在も宮田地区には井戸姓が多い(右表)。この宮田地区の井戸一族と加茂郡の井戸一族との関係は未解明。(2009.9.15.記/2009.10.31改) |
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(2)伊藤
(2)伊藤いとう氏(尾崎) 『飛州志』の三木党には記されていないが、三木氏の部将に伊藤但馬守直尭(なおたか)なる人物がいる。『飛騨編年史要』の天文10年(1541)の条には「飛州三木兵衛次郎、大阪本願寺に至り、太刀一腰、馬代千疋を進上し、同国人伊藤但馬守も太刀一腰、馬代百疋を進上す云々、此の伊藤氏は家格元来三木氏の上なるも、近時、三木氏の権勢に押されてその部将となるものと言う」とある(『証如上人日記』では「伊藤但馬守(中略)国人なり。三木よりも上にて候(そうら)へども、権勢によりて今は三木に与力の由にて候」)。 飛騨三木氏の菩提寺・龍沢山禅昌寺の開山・明叔(みんしゅく)和尚が伊藤但馬守に与えた「和岳道号頌(じゅ)」(写し)によれば、伊藤但馬守直尭は江州北郡の出身という。 |
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萩原町西上田の旧家・桂川家の家系図にも「江州北郡に居す。天文の初め飛刕(州)に移る。伊藤三左衛門直尭、後但馬守と改む」とある。つまり、伊藤但馬守直堯は、三木氏の軍門に下った在地の小豪族(国人衆)ではなく、同郷のよしみで江州から三木氏を頼って益田郡に移住し食邑(領地・采地・采邑)を与えられた新参家臣、ということになる。 現在、下呂市(旧・益田郡)の伊藤姓は80戸と、県内では少ない方だが、萩原町尾崎地区の平沢(ひらそ)集落は20戸中16戸、実に80%が伊藤姓で占められている。桂川氏の家系図は伊藤但馬守直尭を飛騨桂川氏の祖としているが、尾崎の伊藤一族も伊藤但馬守直尭の末裔かもしれない。 なお、伊藤姓は全国6位、約26万戸、65万人の大規模姓である。その系統も複数あり全国に広く分布しているが、東日本が優勢で、特に東北地方と東海地方が上位を占めている。岐阜県では西濃と東濃に多く、とりわけ海津市南濃町の500戸が際立っている。(2009.10.6.記)
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(3)今井
(3)今井いまい氏(奥田洞) 今井姓は全国で5万戸を超す大規模姓で、系統も多岐にわたる。このうち飛騨の今井氏は下呂市萩原町奥田洞の中根城主・今井対馬守貞信を祖とする。井戸氏も今井氏も三木氏の家臣ではなく、三木氏の幕下に入った在地土豪(国人衆)だから、『飛州志』は三木党に入れなかったのだろう。 『斐太後風土記』によれば、今井対馬守貞信は木曽義仲の四天王の一人・今井四郎兼平の末裔という。萩原町奥田洞に中根城(今井城とも)を構え勢力を張っていたが、三木氏の軍門に下った。数代後の今井三次信孟のとき三木氏滅亡により浪人し、今井城も廃せられたという。 現在、下呂市(旧・益田郡)の今井姓は約700戸で、市内1位である(Ú「益田郡の苗字10傑」)。下呂市萩原町奥田洞字今井にある今井城址には今井八幡神社があり、今井谷、今井坂などの地名にも名残をとどめている。(2009.9.15記/2009.9.29改) |
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(4)大前
(4)大前おおまえ氏(中呂) 大前姓は全国で約3600戸の小規模姓である。近畿地方に多く、兵庫県がトップだが、次いで岐阜県に多い。姓氏家系辞書は4流の大前氏を上げているが、「おおさき」と読む地方もあるようだ。
岐阜県内では下呂市(旧・益田郡)が分布の中心だが、その益田郡の萩原町中呂の旧家・大前家の祖先は、飛騨三木氏の配下の土豪であったと考えられている。三木氏の菩提寺・龍沢山禅昌寺に伝わる「明叔(みんしゅく)録」の天文18年(1549)の条に「飛州中呂の甲族(注)大前氏、一宇を建立す」とある(注:甲族=高貴の家柄・貴族・名門)。三木氏と大前氏の主従関係を明示した史料はないが、当時、三木直頼が益田郡を押さえ、桜洞城を築き、中呂に禅昌寺を創建し菩提寺としていたから、中呂の土豪・大前氏は三木氏に服していたと見て間違いないだろう。なお、現在、益田郡の大前氏は萩原町中呂だけでなく、馬瀬村の西村地区と金山町の東村地区に多い(馬瀬西村と金山東村は隣接している)。(2009.10.7.記) |
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(5)岡崎
(5)岡崎おかざき氏(上村) (調査中) |
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(6)奧田
(6)奧田おくだ氏(奧田洞) (調査中) |
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(7)桂川
(7)桂川かつらがわ氏(桜洞) 全国 1,000戸余の桂川姓の53%が岐阜県に集中している。岐阜県内では下呂市(旧・益田郡)、郡内では萩原町が分布の中心である。つまり、桂川姓の全国分布の中心は、岐阜県北部(飛騨地方)の下呂市萩原町である。萩原町内では、桜洞地区、羽根地区、西上田地区に多い。この飛騨桂川氏は京都の桂川や東北の桂川町(けいせんちょう)とは無関係である。徳川将軍家奥医師の桂川氏とも無関係である。
上記『飛州志』の「三木党」の条に桂川の名は見えないが、桜洞城主・三木氏の家臣であることは確かである。萩原町の旧家・桂川家(屋号「大家おいえ」)に伝わる家系図によれば、天文年間の初頭、江州北郡の住人・伊藤但馬守藤原直堯(なおたか)が三木氏の家臣となって飛州益田郡桜洞村に移り住み、その嫡男・五良右衛門(五郎右衛門とも)が古川の戦場で敵方の武将・逸見桂教院(へんみ・けいきょういん)を討ち取ったので、三木自綱から桂川の苗字を与えられたのが飛騨桂川氏の始まりという。以下、桂川家の家伝を紹介しよう。 |
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(2009.9.15.記/2009.10.6.補充) |
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(8)熊崎
(8)熊崎くまざき氏(跡津) 全国 2,200戸余の熊崎姓の54%が岐阜県に集中している。分布の中心は岐阜県下呂市だが、全国の熊崎氏がすべて下呂市(旧益田郡)の熊崎氏の系統であるわけではない。九州や関東の熊崎氏は飛騨熊崎氏とは別系統と考えられるが、飛騨熊崎氏族がずば抜けて多いことは事実である。
この飛騨・熊崎氏一族の先祖も飛騨の戦国大名・三木氏の家臣であった。『飛州志』の三木党の条に熊崎彦三郎、同小七郎の名が見える。また『飛州志』所収の『熊崎文書』によれば、1584(天正12)年に三木氏7代・秀綱が熊崎彦三郎の相続を承認している。 下呂市萩原町跡津(あとつ)の旧家・熊崎家〔屋号「おいえ(大家)」〕に伝わる古文書「熊崎子孫之言伝書留書」によれば、熊崎氏の先祖は京都府船井郡園部町熊崎(現・南丹市園部町熊崎)の出身で、名を念心といい、三木氏の家臣となって飛州益田郡跡津村に住み着いた。その孫・弥九郎は浪人となっていたが、飛騨の新領主・金森氏に肝煎(のち名主)を申し付けられたという。系譜(推定)は、①熊崎念心―
②彦左衛門(彦三郎?)
― ③弥九郎 ― ④弥九郎
― ⑤(不明) ― ⑥惣右衛門
― ⑦市右衛門 ― ⑧半右衛門
― ⑨忠左衛門 ― ⑩甚助
― ⑪松之助 - - - ただし要精査。(2009.9.17.記) |
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(9)小林
(9)小林氏(桜洞) (調査中) |
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(10)都筑
(10)都筑(つづく)氏(羽根) (調査中) |
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(11)内記
(11)内記氏(上村) 『萩原町史』によれば、上村(うわむら)の内記氏は信州諏訪の出身で、中世初期に上村に移住し、一時期はかなりの勢力を誇っていたという。三木氏よりずっと早く、鎌倉時代の初期(1200年頃)に地頭となって萩原郷上村に入部したのかもしれない。1400年代後半、三木氏2代久頼、3代重頼が萩原郷に進出した時に幕下に入ったと思われる。 1514(永正11)年に上村の住人・内記新七郎頼定(1530年没)が本国の諏訪社を勧進し(諏訪神社棟札)、次いで諏訪山大覚寺を創建したという。この内記新七郎頼定について『はぎわら文庫・第3集(萩原の史跡と史話)』は次のような「言い伝え」を紹介している。 内記新七郎頼定は信州(長野県)諏訪のあたりに城をかまえた内記頼重の長男で、武田信玄にもゆかりのある家とのことですが、戦いに敗れて父頼重は討ち死にし、飛騨にのがれて上村に住んだといわれています。 だが、戦に敗れて落ちてきた武士に、移住後まもなく神社や寺を建立するだけの財力や権勢があったとは考えられない。やはり『萩原町史』が示すとおり、上村への移住時期はもっと早い時期であったと考えるのが妥当だろう。 1581(天正9)年に三木氏6代自綱が上呂の久津八幡宮の拝殿を造立したとき、小林正左衛門、舟坂弥治右衛門、内記喜助が奉行人(普請奉行)を勤めている(棟札)。この内記喜助が『飛州志』記載の三木党の内記喜介であろう。 |
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現在、下呂市(旧・益田郡)の内記氏は4戸(上村3戸、奥田洞1戸)と、きわめて少数である。全国でも内記姓は約200戸と希少姓の部類に入る。分布の中心は
はっきりとは見えてこないが、岩手県和賀郡西和賀町の沢内前郷地区に14戸が集中している。内記姓について『新編・姓氏家系辞書』(太田亮1964 秋田書店)は次のように記している。 内記氏 美濃【平野氏族】石津郡内記邑(現・岐阜県海津市海津町内記)より起こる。内記とは、中務(なかつかさ)省の役人で、宮中の記録係であるが、氏はこの職名を負って発祥。但し、地名から起こったものもある。内紀と記す場合もある。 |
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現在、海津市にも、その周辺にも内記姓は皆無である。なお、内記の地名は全国で6ヶ所ある。 |
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(2009.10.2 記/2009.10.9 改) |
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(12)舟坂
(12)船坂氏(上呂) 『萩原町史』等によれば、萩原町上呂の旧家・舩坂家の遠祖は戦国大名・飛騨三木氏の家臣・舟坂弥次右衛門である。舟坂弥次右衛門は益田衆の一人で、戦場で数々の戦功を上げ、三木氏から度々感状を与えられた。舟坂氏の出身地は未詳だが、弥次右衛門以降について、次のような家伝が残っているという。 三木家臣・舟坂弥次右衛門尉仲綱(上呂・三原・和佐内領三百石、元亀元年(1570)授与。妻三木久安妾腹女子)―
同又衛門利綱(金森可重帰国之際、上呂にて討死)―
同又左衛門元綱 この家子孫連綿、今代まで十五代相続。 |
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船坂姓には船阪・舩坂・舩阪・舟坂・舟阪と異体字が多い。飛騨三木氏の家臣の舟坂氏は『飛州志』では船坂彌次右衛門の名で出てくるが、古文書や神社の棟札には「舟坂」と書かれている。現在、下呂市(旧・益田郡)には舟坂・船坂・舩坂の3通りの苗字があるが、これを区別する意味はないと考え、全国集計では、船坂・船阪・舩坂・舩阪・舟坂・舟阪を区別せずに集計した。 全国の船坂姓(船阪・舩坂・舩阪・舟坂・舟阪を含む、以下同じ)は約460戸で、準希少姓の部類に入る。このうち半数近い200戸が岐阜県に集中している。岐阜県内の分布の中心は高山市だが、飛騨の船坂氏は益田郡(現・下呂市)萩原町から広がっていった。
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なお、舟坂・船坂の地名は少なくとも5ヶ所あるが(右表)、飛騨の船坂氏とのかかわりは不明。江州三木との距離からみて、京都市の船坂とのかかわりの可能性が考えられる。 (2009.9.20記/2009.9.30改) |
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(13)細江
(13)細江氏(和佐) 全国の細江姓 1400戸余のほぼ半数が岐阜県に集中する。分布の中心は岐阜県下呂市(旧益田郡)の和佐地区である。この飛騨細江氏一族の先祖も三木氏の家臣団・益田衆の一人である。
萩原町の旧家・細江家に伝わる細江氏系図に、次のように記されているという。 宇多天皇九代の孫、近江源氏佐々木源蔵義綱十五代の孫、多賀太郎舎弟三木左近太夫、近江国細江庄を知行す。(中略)子息造酒之丞(中略)飛騨国へ来たり、益田郡小坂郷に住居す。造酒丞の一男太郎左衛門と言うは無難病死す。嫡子細江弥衛門は三木大和守の家臣となり・・・(後略) この細江弥衛門が、上記『飛州志』の三木党に見える細江彌右衛門である。なお、太田亮著『新編・姓氏家系辞書』によれば、近江佐々木氏は宇多源氏ではなく安部氏族である。(2009.9.17.記) |
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